<最近読んだ本> 

(2003年)

[2003-23]
・「テロリストのパラソル」 藤原伊織 (講談社,ISBN4-06-263817-7,1998/7/15)
 史上初の乱歩賞&直木賞W受賞作品.20年以上前に犯した殺人事件共犯の過去を隠して新宿の雑踏の中にヒッソリと隠れて暮らすアル中のバーテンダー島村は,新宿中央公園で発生した爆弾事件に巻き込まれたことがきっかけで,背を向けたまま置き去りにした学生運動時代の因縁と立ち向かうことになる.元刑事でいまはヤクザの浅井,かつて(事故とはいえ)爆弾の爆発で殺人事件に島村を巻き込んだ過激派の同志・桑野,新宿中央公園の爆弾事件に巻き込まれて死亡した昔の恋人(?)の娘 塔子.島村は偶然,新宿中央公園の爆弾事件の現場に残してしまった(島村は事件の犯人ではない)指紋が元で,捜査線上に名前が上がってしまう.警察に追われ,ヤクザとの微妙な駆け引きを通じて”偶然過ぎる”事件の真相を明らかにしようとする.
 読み始めて最初にピンと来たのは,2002年1月に発生した新宿公園爆破事件です.小説との類似点が多く,模倣犯ではないのか,という報道を聞いた記憶がありました.調べたところ,確かに本作と現場が一致しています.作者の藤原氏,そしてなによりも爆破の被害にあった方にとって,とても許せない卑劣な事件です.一日も早く犯人が捕まることを祈りますし,同種の事件が今後一切発生しないことを心から強く願います.
 解説でも述べられているように,本作の醍醐味は登場人物の会話の巧みさにあるようです.実は読んでいる最中は特別にそのように意識しなかったのですが,ヤクザの浅井とバーテンダーの島村が初めてバーで会話をするシーンは,特に最後まで読み終えた後に改めて読み直してみるとウーンと唸らせる上手さがあります.主人公の島村という男のズボラさと緻密さのアンバランスさも心地よい.”あえて特定のジャンルにはめこもうとするならばハードボイルドの範疇に入るが〜”と,解説の中で西本正明氏の発言を取り上げているように,本作はハードボイルドな作品だと思う.私の読書歴の中で似たような作品を書く作家として高村薫氏(もう警察小説は書かないそうです...少し残念)が挙げられるが,それよりも肩肘を張らずにスルリと書かれた自然な作風(高村氏のくどい人物描写も嫌いではない)が特色かと思います.
 実はオチ(=事件の動機と背景)が気に入りません(笑).「やっぱ,そうくるかぁ!」というか「ちょっと無理ない?」という感じです...その一歩手前までは最高に面白いので,乱歩賞&直木賞W受賞も大いに頷ける秀作ですので,安心して人に薦められます.まぁ,読んでみて下さい.
 私も一時期,新宿の飲み屋街に(少しだけ)足を踏み入れたことがあります.ですのでホットドッグしか出さないバーといった情景も雑踏の中で生きる人たちの息遣いもなんとなく分かりますので,ちょっと懐かしいなと,当時のことを思い出しながら読みました.登場人物にも当時の知人のイメージが自然と重なります.
 本作の主軸の一つは全共闘,学生運動です.いまだにその動機と目的がボクらの世代には理解できない.本作でも当時の学園紛争の情景が克明に描かれています.高村薫氏の「マークスの山」も同様です.やっぱり理解できない.当時の若者,現在のオジサン世代の中には共感をもって受け入れられる部分もあるのでしょうが,やはり理解しがたいがゆえに,先に書いたようにオチが気に入らないのかも知れません.いま学校教員として国家公務員(3/Eまで)(注)の身分にある私が思想上の主義主張を述べるのは不適切だと思いますが,敢えて書きます.国旗国歌問題,靖国参拝,イラク派遣,憲法改正議論といった問題に対する世論の盛り上がりの少なさは一体何なのだろうか.闇雲な絶対的権力(政府,学校組織,会社組織)への反抗が是であるとは言いません.否定する,拒否するのを薦めるつもりは毛頭有りません.考えて欲しいのです.投票率の低下,社会保障費不払いといった不信ゆえの無関心および逃避は,いかなる根拠をもってしても正当化し得ないことを幸福な国に生まれて暮らしているボクらは理解しなくてはいけない.これは若い学生たちに対しての感想ではなく,全世代に対して向けたものです.
 ちなみに私が中学生の頃には「オレたちは腐ったミカンじゃない!」と叫んでガッコウと対立するのをカッコイイとする文化がありました.笑っちゃいますね(笑).甘やかされていたんだなぁと,つくづく思います(以下省略).
(注) 2004年4月1日より国立高等専門学校は,独立行政法人 国立高等専門学校機構となりました.我々高専の教官は教員です.「きょうかん...」@堀ちえみ,じゃなくなったのはチョット寂しいですね.

[2003-22]
・「ダーウィン以来/進化論への招待」("EVER SINCE DARWIN/Reflections in Natural History") スティーブン・ジェイ・グールド(Stephen Jay Gould)/浦本昌紀,寺田 鴻[訳] (ハヤカワ文庫NF,ISBN4-15-050196-3,1977)
 1995年に文庫版で出版された作品です.作者のS・J・グールドは'41年NY生まれのアメリカ人で,26歳の若さでハーヴァード大学助教授(その後,教授に昇格)に就任した古生物学,進化生物学,科学史の分野で活躍するダーウィニストの大科学者です.「パンダの親指」や「ワンダフル・ライフ」といった科学エッセイでも名を馳せている(らしい).本作は「ナチュラル・ヒストリー・マガジン」誌に掲載されたエッセイをまとめた作品で,主にダーウィンの進化論にまつわる誤解や曲解,そもそも進化論が誕生(というよりも公表された)歴史的・文化的背景,そして人種間の差異にまつわる非科学的な定説の数々などを豊富な資料と知識,そして論理によって解説あるいは訂正しているダーウィニズムの啓蒙書です.ダーウィンは1837年には書き始めていた進化論に関する論文を21年間も眠らしつづけたのは何故か(公表した理由はA.R.ウォレス:岩井俊二著「ウォレスの人魚」も参照すると良いでしょう,に出し抜かれそうになったから).進化とは進歩なのか.どの人種が優れているのか(白人が黒人よりも優れていると主張する理屈で言えば東洋人が最も進化していることになってしまうらしい)などなど.全体の3/4ほどは「へー」「へー」とボタンを叩きながらスイスイと読み続けられますし,また改めて10年後くらいに読み返したいと思う資料性の高い本です(同様に資料性が高いものとして,私の中では「物質と生命」が挙げられる).前述の「われらの父の父」を読む前に(正しい)予備知識として読まれることを薦めます.とはいえ注意して頂きたいのは,なにもスティーブン・ジェイ・グールド博士の主張が全て正しいのだから盲信しろということではありません.グールド博士が提唱している,あるいは擁護している仮説が比較的もっともらしいだけであり,もしかしたら本当に未知の宇宙人(既知の宇宙人は未確認だというツッコミは置いておいて)によって遺伝子操作されたのが現在の我々かも知れませんし,隕石に付着して宇宙の彼方からやって来たのかも知れませんし,「われらの父の父」の仮説のように,サルと**の交配種が我々人類なのかも知れません.
 ちなみに「イリーガル・エイリアン」の中でもスティーブン・ジェイ・グールド博士の名前が出てきます.登場人物の多くが”スティーブン・ジェイ・グールド博士の講演”を聞きに外出している間に,主人公の一人である地球人科学者が宇宙人に殺されます.さて,「イリーガル・エイリアン」の中でヒトの目の構造ができ過ぎている(徐々に連続的に進化したとは考え難い合理的で複雑で高度な器官)ことが触れられています.「ダーウィン以来」では,その件に関してグールド流の意見が書かれています.信じるか信じないかは皆さんの自由です.なんにせよ,二足歩行になって手が自由になったから人類の脳の容量は増加したのか,脳の容量が増加したから二足歩行せざるを得なくなったのかすら確実な答えは無い訳ですし,脳の容量が大きいから人類はサルよりも(知性の上で)優れていると断定しようにもクジラの方が人間よりも脳容量は大きいといった有様です.まだ進化の過程にある我々は,どの意見は信じられないか(信じてはいけないか)を見抜く科学的な眼力を磨き上げ,偏見や願望に基づく誤った仮説を定説と信じ込まずに,どの仮説がもっともらしいかを選択するしかありません.夕方の空にポツンと白く浮かぶ月を眺めながら,”あんなに小さくて遠い月の引力で海面が上下動するなんて考えるとは,なんて非科学的なんだ”と,きっと初めて聞いたときには考えただろうなと呟いたのは,まさに今日のことでした.

[2003-21]
・「われらの父の父」("LE PE'RE DE NOS PE'RES") ベルナール・ヴェルベール(Bernard Werber)/阪田由美子[訳] (NHK出版,ISBN4-14-005336-4,1998年)
 我々(ホモ・サピエンス)は,誰なのか,どこへ行くのか,どこから来たのか.いわゆる種の起源を探るSF(だとは最後の解説を読むまで気付かなかった).現代のパリとアフリカ大陸を舞台にして人類のミッシング・リンク(補注1)の謎を(解き明かしたというアジュミアン教授の死の謎を)追い求める科学雑誌「ゲットゥール・モデルヌ」のヴィヴィッドな若手美人女性ジャーナリストのリュクレス・ネムロドと,彼女に頼み込まれて本件に巻き込まれた”科学のシャーロック・ホームズ”の異名を持つ博学な元科学ジャーナリストの中年男イジドール・カツェンベルグの二人が巻き込まれるサスペンス,そして並行して370万年前のアフリカを舞台に人類の遠い祖先である”彼”が必死に生き,考え,そして我々の父の父になる壮大な偶然の物語が,最後には一つの結末(SFなので仮説)へと連なる.
 本作の作者ベルナール・ヴェルベールは「タナトノート」,「蟻」,「蟻の時代」といった作品を書いているそうですが,まだ読んだことはありません.本作品は嫁さんと一緒に鈴鹿市立図書館に行った際に,何気なく手にとって読んでみたところ面白かったもので,それから2年ほど掛けて(!)鈴鹿市立図書館へ行くたびに少しずつ読み進めていって,つい先日,読み終わりました.慣れ親しんだ英米SF作家の文章とは全く違います.正直な気持ちを言えば”インテリ臭い雰囲気”がプンプンとして,一瞬敬遠しかけます.ハイテク・オタクが中心のSF文化で傍流といえば詩的表現に溢れた作品群やファンタジー風作品が私の知っている領域だったのですが,それとは少し趣きが違います.科学を単に技術的側面のみから捉えるのではなく,自然の生み出す偶然やパターンの中に思想や宗教観/伝承などのアナロジーを当てはめて(強引過ぎるきらいはありますが)文学的な厚みを出しています.ダン・シモンズ(「ハイペリオン」)も似たような文章をテクニックとして用いているのに対して,ヴェルベールは血肉として備えている文化的背景を感じ取れます(それが一瞬,インテリ臭い,と感じられるのでしょう).
 残り1/3ほどは図書館から借り出して自宅で一気に読みました.丁度,スティーブン・ジェイ・グールドの「ダーウィン以来」の読了が近付いたこともあり,似たテーマだったので比較のために急いで読んだ次第です.ホモ・サピエンスの進化の過程は依然として謎のままです.母系のみから遺伝するミトコンドリアの解析により,どうやら人類発祥の地はアフリカらしいことは分かっているようです.アウストラロピテクス・アフリカヌスから一体どのような進化の階段を昇って来たのか,はっきりした証拠はまだ発見されていない.その過程の急激な変化に対する衝撃的な仮説を本作では提起しています.これは読んでのお楽しみです.私と同様に「ダーウィン以来」と一緒に読むとより一層楽しめると思います.
 さて,本作品ではヴェルベールの仮説以外の数多の仮説を多数の登場人物の信じる仮説として登場させます.各説は論じる人物のキャラクタにうまく合わせて,というよりも,各説に合う登場人物を用意し,その登場人物の間を主人公のリュクレスとイジドールの2名に巡回させる形式を取っています.それがロールプレイングゲームのようなストーリー展開の強引さを生んでおり,多少,残念に感じられます.しかしうちの嫁さんも(私に内緒で)一気に読み終えてしまったように,そして私が1,2ヶ月に数ページずつとはいえ読み続けたように,「仕方ねーなー」と言いながらグイグイと読み進められた原因の一つかも知れません.
(補注1)実は先日,嫁さんから指摘があるまで私は「ミッシング・リング(Missing-Ring)」だと勘違いしていました.”失われた環”と訳されることが多いため,無意識のうちにRingだと憶えていた次第です.正確には「ミッシング・リンク」(Missing-Link)だそうです.Googleで検索すると”ミッシング・リング”(誤)で3,400件,”ミッシング・リンク”(正)で5,510件のヒットがあります.リング勘違い派も予想以上に多いようです.

[2003-20]
・「インターネット」 村井 純 (岩波新書,ISBN4-00-430416-4,1995年)
 村井 純氏は'55年生まれ,慶應義塾大学で博士課程を修了し,東京工業大学総合情報処理センター助手と東京大学大型計算機センター助手を経て’90年から慶應義塾大学助教授.なによりも有名なのは日本のインターネットの父(?)であること.え,知りません? そうですね,多くの方々にとっては,いつの間にかそこにはインターネットがあり,きっとプロバイダや電話系大手・電力系大手,あるいは政府がチキチキと張り巡らせたものだろうと思われていても不思議はありません.私が生まれてから20年間住んだ千葉県を離れて福岡県飯塚市にある九州工業大学情報工学部に編入した’89年,まだインターネットは(いまのような姿では)存在していませんでした.コンピュータは1台1台が独立して動作し,LANという概念も遠い世界の話でした.コンピュータと外界との通信手段としてパソコン通信が唯一,(ごく限られた人々の間で)活用されていたに過ぎません.私がパソコン通信を始めたのはハレー彗星が地球に接近した’86年頃だったと記憶しています.300bpsのカプラモデムを黒電話に接続して使用していました.’89年の頃も1200bpsのモデムでしたね.東京にあるホストコンピュータへ福岡県から電話で接続したのでは電話代が大変です.そこで衛星通信回線を使用していましたが,これは例外的なもので,多くの遠隔地のパソコン通信ユーザはNTTのDDX-TPというパケット通信サービスを使用していました.大手(NiftyServe, PC-VAN, Ascii-net)は全国各地にアクセスポイントを持っていました(インターネットプロバイダのダイアルアップサービスに衣替えしましたが,ADSLの普及に伴い,徐々にその役割を終えています).
 さて,’87年に新設された九州工業大学・情報工学部は(冗談か本気かはともかくとして)日本のMITを目指し,当時としては異例といえる規模のワークステーションを導入していました(私がいた知能情報工学科ではSunのSun3とSun4,大学院で在籍した機械システム工学科ではApollo Domain).ここで初めて私は JUNET という名前のコンピュータネットワークに接する機会を得ました.この JUNET(村井 純のJUN-NETじゃないか,というジョークもあった)が日本のインターネットの母体です.
UNIXに触れたのも,本格的な電子メール(パソコン通信の電子メールは同じサービスに登録している会員間でしかメッセージ交換ができなかった)を使ったのも,ftpでフリーなソフトやデータの交換を行ったのも,NetNews(世界規模の電子掲示板)でのアカデミック(じゃない人々もたくさん居ましたが...)な意見に耳を傾けたのも,JUNETでした.
 当時,確か年末に,大学の端末を使って東京大学のanonymous ftpサイトからTeXのPKフォントを友人と一緒に入手しようとしました.多分,数MB程度の容量だったと思いますが,1時間経っても2時間経っても転送が終了しませんでした.諦めて年が明けてから再チャレンジしたところ,一気に通信速度が上がっており,ものの数分でダウンロードが終了してビックリした記憶があります.その時に,”WIDEプロジェクトのお陰だ”と聞いた記憶があります.村井 純氏はそのWIDEプロジェクトの代表です.
 1969年,アメリカでのARPAネット(アドバンスト・リサーチ・プロジェクト・エージェンシー・ネットワーク)の実験が始まりで,それがCSネット(コンピュータ・サイエンス・ネットワーク)の計画を経て,いまのインターネットになりました.世界中にはJUNET同様の学術ネットワークがいくつも存在し,それらが徐々に相互接続されるようになって,いまの世界規模のインターネット網が構築されました.もともとが学術用途中心のネットワークだったので,商用利用されるという発想は利用者にも無く,ソフトウェア文化に関してもFSF(Free Software Foundation)に代表されるように,広くオープンに公開して自由に交換されるものである(商用ソフトウェアを違法コピーするという意味ではありませんよ)という風土でした.修士課程を修了して企業に就職することで,アカデミックなインターネットから離れた’93年,丁度,Webサーバが登場して俗に云う”ホームページ”が登場し始めた時期ですが,残念ながら私は接する機会がありませんでした.そして’95年にWindows95が発売され,大手企業もWebサービスに本格的に参入してインターネットは多くの一般市民のものとなりました.もっとも’93年から’97年までの4年間,民間企業に在籍中にインターネットは様変わりしており,私は完全に取り残されてしまうことになります.
 前置きが非常に長くなりましたが,本書は’95年11月に出版され,私は’96年に購入(あれ?レシートを紛失している),その後,7年以上も読まずにいました.この本は本家本元の”ミスター・インターネット”による啓蒙書として,いかがわしい”インターネット入門”の類とは異なる本格的な書籍として出版されたものだと思っていました.いま読んでみた感じでは,私の過大な期待であったようで,ちょっとまじめなインターネット入門という内容です.満を持して出版されたというよりも,極めて短時間に慌てて書かれたものではないだろうかという印象です.図表や写真は一切無く,資料性もあまり高くありません.B.W.カーニハン&D.M.リッチーの「プログラミング言語C」(通称K&R),Richard Stallmanの「GNU Emacsマニュアル」,Leslie Lamportの「文書処理システムLaTeX」といったバイブルとは異なります.しかし,前置きで私がツラツラと書いたように,今日の快適なインターネットが構築されるまでには数多くの困難があり,それが商業主義ではなく(というよりも商業主義では成り立ち得なかったという点も重要),学術的な興味や必然性から改善・改良を重ねて作り上げられたものであることが,当事者自ら語ることで,文面から嫌味なく伝わってきます.本書の価値はこの点に尽きるのではないでしょうか.もちろん現在のインターネット文化の構築は村井 純氏一人の功績ではありません.非常に数多くのウィザードたちの真剣な議論と作業によって成り立っていることを肌で感じ取って頂ければ幸いです.そうすれば「Microsoftは儲け過ぎているから悪で,Linuxは無料だから正義だ」といった類の浅薄な意見は鼻で笑い飛ばせるようになるはずです.

[2003-19]
・「ハイペリオン(上/下)」("HYPERION") ダン・シモンズ(Dan Simmons)/酒井 昭伸[訳] (ハヤカワ文庫,ISBN4-15-011333-5,1989年)
 ヒューゴー賞/ローカス賞受賞作品.1994年末に単行本で出版されたものの文庫版.28世紀の未来の物語.人類は宇宙に広くその版図を広げている.人類発祥の地・地球は”ちょっとミスッて”マイクロブラックホールに食われてしまって,もう無いらしい.”幸いなことに”人類以外の知的生命は宇宙には存在しない.唯一の外敵は宇宙生活に適応した<放逐者>アウスター(ロイス・M・ビジョルド「自由軌道」に出てくる遺伝子操作された4本腕種族クァディーを野蛮人化させたイメージ?)と,AI(人工知能)群の独立自律知性群(テクノコア).叙事詩的スペースオペラです.辺境の惑星ハイペリオンに向けてアウスターの大艦隊が進撃を開始した.ハイペリオンには謎の遺跡<時間の墓標>(時間の流れが逆行する特殊なエントロピー場に覆われている)があり,謎の怪物シュライク(時間を操る能力を持つ?)が跋扈(ばっこ)する.(人類の知る)宇宙で一番の謎の惑星だ.この地がアウスターの手に落ちると,人類存亡の危機(なのか?)である.というわけで(どういう訳なのかは読み進んでも良く分からないのだが)7人の人物が選ばれてシュライク教団(という終末思想の宗教)の巡礼としてハイペリオンへと赴く.本作品は惑星ハイペリオンと深い業で結ばれた7人の巡礼者が,巡礼の道すがらお互いの物語を順に語るオムニバス形式を取っている.神父,詩人,軍人,学者,探偵,修道士,そしてハイペリオンの元領事.物語の世界や表現手法をそれぞれ変えて6つ(修道士の物語は無い)の物語を書き分けるシモンズのストーリーテリングの技量と創造力と知識は確かに優れており,6つも話があれば,どれか一つ位は読者の心を掴むでしょう.様々な偉大な作家・作品の影響を受けたサイバーパンクありル・グイン風の異文化交流あり宇宙の戦士ありアルジャーノンに花束をで,悔しいけれども面白い.そもそも本作はイギリスのロマン派詩人ジョン・キーツの物語詩「ハイペリオン」と「ハイペリオンの没落」を下書きにしている.さて,まだ読み終えていない方には忠告です.実は本作品,意図的に(ジョン・キーツの「ハイペリオン」同様に)”未完”です.いざ巡礼の目的地である<時間の墓標>に到着したところでスパッと話が終わってしまいます! 必ず続編「ハイペリオンの没落」を入手してから読むように.そうじゃないと後悔しますよ.私は入手していませんので,いまとても辛い.単なる続編ではなく,別の視点から7人の巡礼の旅を描くことで,一通りの謎を解き明かしてくれるそうです.もっとも全ての謎が解ける訳ではなく,「エンディミオン」,「エンディミオンの覚醒」まで執筆して頂いたそうです.ずるいぞ,シモンズ.
 正直な読後感を述べると,面白いし,ずば抜けた筆力を感じる一方,”オタクっぽい”のが気に障るところがあります.偉大な作品へのオマージュ(尊敬,賛辞)を捧げようというのは良く分かるのですが,「かつてギブスンという名のカウボーイが<コア>を突破した〜」と来ると,ニヤッとするよりもガクッと来る.どうしても「あ,これって誰々の何々っぽいよね(くすっ)」と元ネタ探しをしたくなってしまう.せっかく壮大な世界を構築したのにオリジナリティを疑ることになってしまい,残念です.本文庫のあとがきには,訳者のあとがきに加えて(株)ガイナックスの武田氏のあとがきもついています.武田氏はこの中で,本作を読み直した後にインスピレーションを受けてガイナックス作品のネタに使ったかもね,とコメントしています.(ファンの人には申し訳ないが)私がガイナックス作品群に感じる「イヤだな」と思う点は,実は同じ”オマージュだよん”という顔をしたオタク感で,多分,本作を読んだ後に感じた印象と同一のものでしょう.

[2003-18]
・「ダスト」("DUST") チャールズ・ペレグリーノ(Charles Pellegrino)/白石 朗[訳] (ソニーマガジンズ,ISBN4-78-971813-8,2002年)
 ロングアイランドで”埃”にしか見えない謎の微生物が大量発生,アッと言う間にロングライランド島の人々を食い尽くした.その正体はダニ(tick, mite)だった.同時に全世界規模で異常現象が発生する.あらゆる種類の昆虫が姿を消し,おとなしいはずの吸血コウモリがヒトを襲い,植物が枯死して地球上の(ゴキブリを含めて)全ての生物が絶滅する過程を科学的にシミュレートした正統派ハード終末SF.恐竜がなぜ絶滅したのか.巨大隕石衝突を原因に挙げる理論が有名ですが,それ以外にも植物が花を咲かせたことが原因であるという説もあるし,それ以外にも遺伝子爆弾という説もある.遺伝子爆弾説は,ファンタジア理論とも言うらしい( 「知ったか」よもやま話).(私は観たことがありませんが)個体数が激減し,絶望の淵にある恐竜が空を見上げると追い討ちを掛けるように巨大隕石が降って来る.つまり隕石による環境激変よりも先に絶滅が始まっていたと言う(定説とは異なる)ストーリーだったらしいです.本作でも取り上げられている例ですが,竹は120年に一度,一斉に絶滅(?)するらしい(実際に絶滅するのを見たわけではない).その結果,竹に依存している生物は大打撃を受ける(例えばジャイアントパンダ).DNAを生物になぞらえ,全ての動植物はDNAの乗り物であるという考え方もある.DNAは生存し続けるために,乗り物である動植物を多様な形態に変化させて環境に適応してきたという考え方.私たちの世代は義務教育で分子生物学を習わなかったので,植物にもDNAがあるということを教わっていません.「イネのDNAの解読が完了した」と聞いたとき,恥ずかしながら「あ,そうか」と納得しました.遺伝子組換え野菜に関するニュースを読んでいながら,なぜかDNAは動物だけのものだと思い込んでいました.ちょっと話が横に逸れたが,DNAの中に(一時的に)大絶滅を起こすことで生き延びようという仕組みが隠されているのではないか,という説です.DNAにとって人類の叡智や文化や宗教や寛容の精神などは取るに足りないものですね.
 邪魔者だと忌み嫌われている虫.しかしその虫が(ゴキブリを含めて)一斉に絶滅すると何が起こるのか.ちょっと考えてみて下さい.最も切実な問題としては,受粉が行われないので植物が種(実)をつけない.植物をエサとしている動物や虫をエサとしている動物が絶滅し,その動物をエサとしている動物が絶滅するという食物連鎖の崩壊.動物の死骸は虫により”分解”されずに腐り,土壌は耕されない.その結果,人類がどのような影響を受けるか,ちょっと考えてみて下さい.害虫が姿を消したことで一時的に作物が大量に収穫できるかも知れないし,伝染病も減るかも知れません.しかしエサを失った動物(虫を含む)が人間を新たな食料源とするのは恐怖を盛り上げるための脚色だとして,まず食糧不足による餓死者が大量に発生する.国家の基盤が揺るがされた結果,国家間の戦争が勃発し,経済活動は停止し,株価は急落,貨幣は価値を失う.”核の冬”程度の緩やかな変化ならば,「マッド・マックス」(2以降)や「北斗の拳」程度,うまくすれば「未来少年コナン」程度には,人類の知恵や科学や倫理感をもって抗えるかも知れないが,その変化が急激であったときに,人類が取るであろう悲惨な結末を悲観的な視点で描いています.あまりにも絶望的なストーリー展開に,(世界情勢をつぶさに観察していない)平和な時代のニホンの人々が読んだならば,「そんなバカな」と思っただろうが,中近東やアジアを含め,世界中の情勢が不安定であることを知っている現在の私個人としては「こんなものだろう」という諦めがあります.
 科学者が書いた作品なので,小説としての満足度・完成度はあまり高くない.科学的なディテールに凝るだけならば歓迎できるのだが,心理描写や情景描写に回りくどい個所が多い.もっとスムーズに読める作品に絞り込んで欲しかった.着想の面白さや豊富な科学知識は読む価値ありなので,パッパッパッと読み進めてしまうことを勧めます.
(補注) 2005/05/28(土) 「ミツバチに吸血ダニ被害、全米の半数が死滅に直面
」(asahi.comより) ハチに寄生する吸血性のバロアダニ(東南アジア)が殺虫剤への耐性を強めて大繁殖した結果,全米で飼育されているハチの半数近くが死滅する恐れがあるとのこと.この小説のようにエサが無くなったから他の生物を即襲い始める訳ではないでしょう.ですからパニックになる必要は無いと思います.ただ,養蜂は病気に強いハチを育てて来ているのに対し,野生のハチはどうだろう.広い地域に分散している分,野生のハチへの影響の拡散速度は遅いかも知れないが心配です.ただ,野生のハチとバロアダニとの関係は殺虫剤とは本来無関係に共存してきたはずですので,殺虫剤に対する耐性を強めたとしても問題はないのかな?

[2003-17]
・「メディチ家の短剣」("THE MEDICI DAGGER") キャメロン・ウエスト/酒井武志[訳] (ハヤカワ文庫,ISBN4-15-041022-4,2002年)
 メディチ家の依頼でレオナルド・ダ・ヴィンチが作ったという,”ほとんど空気のように軽く,いかなる手段を用いても再び溶かすことも,変形させることも,へこませることもできない”合金製の短剣を巡る”痛快冒険小説”で,トム・クルーズ映画化が決まっているらしい.主人公はこのメディチ家の短剣の在り処を記した暗号文書に因縁をもつスタントマンのレブ・バーネット.(美人)美術史研究家アントーニア・ジネーブラ・ジャネッリと共に悪者の手から逃れつつ,情報機関を巻き込んだ権謀術数の網の目の中を掻い潜って伝説の短剣を探し出す.
 同じレオナルドの短剣ネタを以前にマンガで見掛けた事がある(確か浦沢直樹の「パイナップル・アーミー」だったと思う).その時は”アルミ製”というオチだったが,今回はそれが何かという点には無頓着.軍事兵器への転用を武器商人は目論んでいるという程度.オトコノコたちをワクワクさせるのは,レオナルドの仕掛けた暗号を解読するプロセス.ただ,冒険小説としてどうかと言えば,合格ではあるが点は低い.意味深で思わせぶりなセリフや情景描写に雰囲気を乱される上に,主人公は幼少時に火事(放火)により家族を失ったトラウマから人間不信.謎を解く過程で人格上の欠点を認識・克服してハッピーエンドするのだが,10代,20代の若造という訳ではないので(私自身の欠点には目をつぶりながら)「しっかりせんかいっ」と怒鳴りたくなる.深みのある人物像と言えば良いのかも知れないが,”痛快冒険小説”と呼ぶには相応しくない.クライブ・カッスラー氏の連作に登場するダーク・ピットのような(不完全な部分も含めて)完成したヒーローが望ましい.

[2003-16]
・「狩人の夜」("THE NIGHT OF THE HUNTER") デイヴィス・グラッブ/宮脇裕子[訳] (創元推理文庫,ISBN4-488-23702-9,2002年)
 物語の舞台は1930年代の米国,フォードのT型が現役で走っているしグレイハウンドのバスも走っているが,米国はどんぞこの不況下で「三分の一の国民が,住むところにも着るものにも,食べるものにも不自由している」(1937年・ルーズベルト大統領).本作が書かれたのは1953年.作者のグラッブは生まれ故郷のウェスト・バージア州のオハイオ川流域を舞台とし,この地域に伝わる言い伝えや伝説を散りばめた「メロドラマ的恐怖小説を描く作家としての才能を生かして,いわゆるローカル色の濃い作品を作り上げている」(解説中で引用されている言い回しを更に引用)と表されているらしい.いわゆるサイコ・サスペンスの先駆的作品で,本作はグラッブの長編第一作でもある.悪く言えば”この手の作品以外は書かない”作者だったらしく,邦訳された作品もほとんどない.地域色の強いホラー作家といえばメーン州を舞台にモダンホラーを大量生産するスティーブン・キングの名前が,まず挙げられる.確かにキングも本作(および本作の映画)を絶賛しているらしい.
 あらすじは,「亡夫が隠した大金のありかを探り出すために,狂気の伝道師が未亡人とその子供たち(兄妹)を付け回す」というもの.”大金”は銀行を襲って手に入れた罪深い金であり,死刑が執行されて父を失った家族は経済的に苦しく,社会的に冷たく扱われており,ひどく辛くて悲しい.絶望の淵に立つ彼らに救いの手を伸ばす伝道師が,実は下心ありの犯罪者である.伝道師の手から逃れるために兄妹は故郷の町を離れて逃げ回る.
 本作は1955年に映画化されている.映画批評家,作家であるジェームズ・エイジーが脚色,個性派名優チャールズ・ロートンが監督・演出,ロバート・ミッチャムが主演した,かなり実験的な色合いの強い作品だったらしい.さて,サイコスリラーの隠れた古典的名作らしい本作とは別に,もう一つ同時代に有名な作品がある.「恐怖の岬」('61年,J・リー・トンプソン監督,グレゴリー・ペック,ロバート・ミッチャム共演,1991年にマーチン・スコセッシ監督により「ケープ・フィアー」としてリメーク.ニック・ノルティ,ロバート・デ・ニーロ共演)がある.そう,どちらの作品でも異常な執着心を持って主人公たちを付回す役があり,これをロバート・ミッチャムが演じている.解説の中では,本作のルーツをマーク・トウェインの「トム・ソーヤの冒険」にあると述べている.そして「恐怖の岬」を経て,現在のモダンホラーへと続く.なるほど,異色作品ではなく,きちんとした流れの中にある作品かつ(まったく翻訳されなかったが)極めて重要な作品であったらしい.
 1930年代のアメリカも「大草原の小さな家」のアメリカも,生活の中に深く浸透した宗教(キリスト教)に基づく生活規範の点において,大した変化がないことが良く分かる作品でした.善良であり狂信的であり罪深く,そして自らが正しいと信じるヒトビトが中心の社会に蠢く恐怖を見事に描き出している.

[2003-15]
・「冷たい密室と博士たち」("DOCTORS IN ISOLATED ROOM") 森 博嗣 (講談社文庫,ISBN4-06-264560-2,1999年)
 「すべてがFになる」の続編.主人公の犀川助教授,西之園に変わりナシ.冒頭で引用されるのは"Foundations of Solid Mechanics",  Y. C. Fung著, 1965 (「固体の力学/理論」培風館 1970).工学の専門書から抜粋するのは珍しい.まだ2作目なのでこの後このシリーズがどういう展開をしていくのか分からないが,国枝助手は婚約し,喜多助教授が初登場する.国立N大学の付属施設・極地研(広大な低温施設)の密室で殺人事件が発生,極地研に所属する喜多助教授と見学に来ていた犀川と西之園も巻き込まれる.最終的にはセオリー通りに犀川が謎を解く,というか,明らかにするのだが,基本的には名探偵役ではないので表現が難しい.本人には謎を解こうとする気はまったく無く,西之園に文字通り振り回されて否応も無く事件と関係する.アカデミックな研究者の人間関係や常識が一般社会とは多少異なるため,一部では「この作者は人間を描いていない」と評されたこともあるらしい(解説より)が,読後感としては「すべてがFになる」に比べると犀川の通俗的な面が(可哀相なくらいに)表に出てきており,さらに適当に山場もあって読み易い.ただ残念なのはノベルス版解説が難解なフリをした浅薄な内容であったこと(軽薄なフリの高尚か?).「すべてがFになる」の瀬名氏の解説との落差が激しく,ひどくガッカリとさせられた.文庫版解説は一定レベルにあったものの意外性や新規性は無かった.

[2003-14]
・「イリーガル・エイリアン」("ILLEGAL ALIEN") ロバート・J・ソウヤー (ハヤカワ文庫,ISBN4-15-011418-8,1997年)
 「ゴールデン・フリース」,「さよならダイノサウルス」,「ターミナル・エクスペリメント」,「スタープレックス」,「フレームシフト」といった”滅法面白い”正統だけれども一味違うSFを執筆するロバート・J・ソウヤーの”ファーストコンタクト”+”法廷ドラマ”(!).アルファ・ケンタウリよりやって来た7名のエイリアン(トソク族).友好的な関係を築くべく地球人との間の交流が始まった矢先に滞在施設で地球人の科学者が変死する.犯人として起訴されたのはトソク族のうちの1名,ん? 起訴! 日本の司法制度と根本的に異なる陪審員制度に基づき,前代未聞の宇宙人 対 ロサンジェルス郡の裁判が始まる...荒唐無稽だけれども別にコメディではありません.トソク族と地球人の間の友好関係の行方はどうなるのか.スピーディに楽しめることでしょう.宇宙人と地球人が社会的・文化的・経済的交流を確立した上で発生する殺人事件ではなく,ファーストコンタクトの途上で発生した事件であることを注記します.本作のような奔放にして精緻な作品作りができるソウヤーの能力には目を見張るものがあります.クラークやハインラインのもつ一本気なストーリーの立て方とは明らかに異なります.ページをめくる度にワクワクするのはどちらも同じですが,次に何が起こるのか(あるいは既に何が起きていたのか)が予想できない面白さです.これであと,ゼラズニー,J・G・バラードやコードウェイナー・スミスのような詩的な美しさを文章に求めることができたら言うことはありません.非ヒューマノイド型エイリアンとのファーストコンタクトの行方や文化の違いによる面白さに関しては,フレデリック・ポールの「ゲイトウエイ」シリーズに似た雰囲気があります.

[2003-13]
・「臨機応答・変問自在2」 森 博嗣 (集英社新書,ISBN4-08-720160-0,2002年)
 タイトルから分かるようにこれは「臨機応答・変問自在」(2001)の続編.著者は某国立大学(M大学,N大学)の工学部建築学科の教官として20年近く授業を行ってきた.授業では毎回,1人1つ,教官宛てに質問を提出させ,それに対する回答を続けてきた.前書はその中から授業とは直接の関係が無いけれども一般のヒトが読んでも面白いものをピックアップしたものです(実は読んでいない).前書に匹敵する優れた質問を集めるにはあと20年要するので,本書の質問はインターネットを介して広く受け付けた中から選び出されたものだそうです.正直な読後感は”面白くない”.パッパッと斜めに読み飛ばしてアッという間に読了しました.何が面白くないかと云えば質問が面白くない.基本的に森氏のバックグラウンドを熟知した森ファンが”これでどうだ!”と出してくる質問なので,ヒラメキが少ない.その上,質問のスタイルが中途半端に不完全(いっそ,「そりゃ質問じゃないでしょう」くらいに崩れきっている方が面白いでしょう).質問の主題が抽象的過ぎて答えようがない中,森氏は(私の基準から言えば)かなり辛抱強く返答しています.例えば,「生きていく上で先生(:森氏のこと)が大切にしているものは何ですか?」(P.110)と云う質問があります.答えは「そのときどきによって,いろいろあります.たとえば,呼吸とか水とか」.森氏は本気で真正面から質問者の質問の意図を特定して正確に答えているのかも知れませんが,もしかしたらトボけて答えているのかも知れません.同じような質問を受けた場合に,私は意図的にトボけて答えることがあります.多くの学生さんは気分を害し,中には少数ですが激怒するヒトもいます.(少し話が逸れて聞こえるかも聞こえるかも知れませんが)”シンプル・イズ・ベスト”が安易に免罪符として用いられる場面が多くて私は閉口します.機械の設計であったり,プログラムの設計であったり.機能する上で不可欠な部分は限りなくシンプルにするのは重要ですが,シンプルにしたために機能を損なうのは誤りです.調整・拡張を無視したメカの設計,エラー処理を後回しにしたプログラムの設計などです.誤用される”シンプル・イズ・ベスト”が免罪符として用いられると云うのは,主に思考停止(面倒くさい)や責任回避の方便として無意識・無秩序に使われる時です.”大切にしているものは何ですか?” 大切にするのは物か,者か,考え方か,判断基準か,信条か,心情か.大切にするとは他を犠牲にするのか,それを尊重するのか.そしてどのような状況を前提としているのか.シンプルな質問には深遠な疑問が潜み,壮大で論理的な思考を経て,ハッとするような答えを導き出す場合が多々あります.しかし(前書は異なると思いますが)本書の質問にはそのようなヒラメキはほとんどありません.では,ここで私が私に一つの質問.「なんで2巻目から買ったのですか?」 答え,「古本屋の100円コーナーに置いてあったので買ってみた.古書再販売が新刊書販売に及ぼす影響は深刻であり何らかの対策が必要であることは理解しているが,私は小学生の頃から古本屋が好きで,特に100円コーナーが大好き.ちなみに100円コーナーに置いてあったのだが,実際は250円で非常に悔しかったが,「あ,買うの止めます」と言い出す勇気がなかった.前書を読んでいなくても支障が無さそうなので本書を読んでみた」.
P.S. 有意義な質問と回答,に興味のある方は,NHK総合(あるいはNHK BS2)でときどき放映される「(俳優名),自らを語る」という番組をご覧下さい.司会のジェームズ・リプトン氏がNYのアクターズ・スタジオにて映画俳優をゲストとして迎えるインタビュー番組です.インタビューの最後に有名な”10の質問”を行います.アクターズ・スタジオの学生とゲストとの質疑応答コーナーもあります.どちらも非常に価値のある質疑応答です.

[2003-12]
・「ポップコーン」("POPCORN") ベン・エルトン (ハヤカワ文庫,ISBN4-15-100140-9,1999年)
 英国推理作家協会賞ゴールド・ダガー賞の受賞作.タイトルのPOPCORNは「食べても食べても腹に溜まらない」という意味(しかも気持ち悪くなる).主人公は米国の映画監督ブルース・デラミトリ(離婚調停中),バオイレンス映画を得意としています.若者の強い支持を受け,とうとうアカデミー監督賞を受賞します.授賞式の夜,ブルースが帰宅すると自宅は(自分の映画の登場人物さながらの)連続殺人鬼のカップルに占拠されており,同伴した女優のブルック・ダニエルズともども人質に.さらに離婚調停中の妻と娘も人質に.連続殺人鬼カップルの要求は?! 軽薄な主人公や周辺のヒトビトのキャラクタ設定が綿密に作り上げられており,ぐぅの音も出ません.アッと言う間に最後まで読み進めることができます.これはお勧め.
 エゴ剥き出しで自己中心的,虚栄心の強い米国セレブリティを強烈に皮肉った本作が英国から発信されたことが興味深い.一歩外に引いたところから観察した方が客観的に評価できるのでしょう.巻末にはジャーナリストの筑紫哲也氏とアニメ作家の富野由悠季氏の対談も収録されています.

[2003-11]
・「アトランティスのこころ(上/下)」("Hearts in Atlantis") スティーヴン・キング (新潮文庫,ISBN4-10-219325-1/4-10-501908-2,2002年)
 キングの作品は(文庫化されているものは)ほぼ全て読んでいます(補注1).モダンホラーの旗手.多くの作品が映画化(自分自身で出演したり,監督したりしているものもある)されている.処女作「キャリー」から「クージョ」「シャイニング」「デッドゾーン」などの名作や「スタンド・バイ・ミー」「ショーシャンクの空に」「ミザリー」「ペット・セメタリー」「グリーン・マイル」,イマイチだった「炎の少女チャーリー」「クリスティーン」「とうもろこし畑の子供たち」「ゴールデン・ボーイ」「クイック・シルバー」「バーチャル・ウォーズ」「バトルランナー」「ダーク・ハーフ」,TVドラマ化された「IT」「ランゴリアーズ」「ニードフル・シングス」などなど,まだ抜けているものがあると思いますが,ともかく沢山です.最新映画化は「ドリーム・キャッチャー」(まだ観ていない)です.で,実は一押しは「「キャッツ・アイ」(北条 司のマンガとは別物.ネコを狂言回しとしたオムニバス)です.でもビデオレンタルには出ていないですねぇ.
 相変わらずストーリーテリングのパワーは猛烈で,ぐいぐいと読み進められます.ただ,本作が大きく分けて3つの章に分かれていることを事前に知っていないと,第1のエピソードとそれ以降の趣向の違いに,かなり戸惑います.本作もアンソニー・ホプキンス主演で映画化されています.まだ観ていませんが,きっと第1のエピソードを中心に映画化されているのじゃないかな? 実は読みながら「かなりラリラリっているのじゃないか?!」(キングはかつて薬物中毒だった時期がある)と不安になりました.説明不足かつ唐突な展開が多く,かなり派手に振り回されます.こんなことは今まで無かった.荒唐無稽ならば荒唐無稽で突っ走って欲しいのに,なぜかセンチメンタルな展開に切り替わっていきます.それなりに面白いけれども評価は低い.
 キングの作品は”何か怖いもの”と対決(あるいは対面)します.吸血鬼であったり,狂犬病の犬だったり,不思議な車だったり,謎の国家権力であったり.世界観を表すために具体的な商品名や,音楽,小説等を持ち出したりする過剰なほどの説明に比べて,不可思議なパワー,恐怖がいったい何なのかを論理的に細かく説明しないところがキングの小説の読み易さの秘密でしょう.今回の作品でも第1のエピソードに関しては「こいつが悪だ」という存在を明確に示していながら,それ以降のエピソードでは全く完全に「悪」が出てきません.ところで「アトランティスのこころ」って?という点についても明確には触れられていません(極めて曖昧には説明されている).根底にある恐怖や悪を無理やりキングの代わりに説明することはできますし,説明したい欲求に駆られますが,それってキングの作品らしくない証拠ですね...
(補注1) Amazon.co.jpで調べてみたところ,特に2000年以降に出版されている作品はほとんど読んでいないことが判明.それとハードカバー版の文庫化された作品もほとんど読んでいませんね.

[2003-10]
・「インターネットはからっぽの洞窟」("SILICON SNAKE OIL, Second Thoughts on the Information Highway") クリフォード・ストール (草思社,ISBN4-7942-0743-3,1997年)
 前作「カッコーはコンピュータに卵を産む」(ノン・フィクション)で一躍有名人になってしまった天文学者なのにインターネットセキュリティの専門家(?)であるクリフォード・ストール氏.75セント分の不正アクセスの発見からインターネットを渡り歩くハッカー(:クラッカー)グループの正体を突き止めてしまった経緯は,カリフォルニアのアカデミック・カルチャーを織り交ぜながら軽快に,だけれどスリリングかつ知的好奇心をくすぐった傑作.同様のノン・フィクションに下村 努著の「テイクダウン」も有名で,こちらは「ザ・ハッカー」という(あまりにもイイカゲンな)タイトルで
ディズニーにより映画化され,ビデオも発売されています.Tsutomu Shimomuraはノーベル物理学賞を受賞した故リチャード・ファインマン氏に師事したこともある天才肌の人物なので,ストール氏と同様にアカデミック界の人物ながら,(悪意はありません)ちょっと鼻につくところがあります.下村氏の活躍により逮捕されたケビン・ミトニックは2000年1月に釈放された(http://www.hotwired.co.jp/news/news/Culture/story/3617.html).3年間のコンピュータ,ソフトウェア,暗号化機器,携帯電話番号の所持を禁止されていたのも解除された.今後の活動に注目が集まる.頼む,更正してくれ.
 ストール氏や下村氏が正義のハッカーだとすると,悪のハッカー(=クラッカー)側の物語もある.本当はワクワクしちゃダメなのですが,「サイバーネット」("HACKERS",1995, 米)は非常に面白かった.古典的名作といえば「ウォー・ゲーム」("Wargames", 1983,米.ジョン・バダム監督,マシュー・プロデリック,アリー・シーディ(!))が有名です.それに対してて90年代の「サイバーネット」はスピード感があり,技術的な”それっぽさ”は幾分上です.ちょっとエキセントリックな服装趣味のクラッカー少女としてアンジェリーナ・ジョリーが出ています.ビデオレンタルで発見したら「だっせータイトル」なんて思わずに借りてみて下さい.

 さて,前置きが長くなりましたが,ストール氏の2冊目の本書は,1作目のノンフィクションのように何か事件が起こるわけではありません.簡単に言えば「世の中すべて,インターネット,情報ハイウェイで繋がってバラ色の未来!!」と浮かれているけれども,そいつは本当かい?と警鐘を鳴らすために1冊費やしています.同じことを繰り返し述べる個所もあって少し冗長な感もありますが,ストール氏の広い交友関係に基づく複数の証言,事実,憶測,逸話で飽きることはありません.本人も書いていますが,インターネットが世の中の役に立たないというアンチテーゼではありません.(いつ完成するか分からない,というか絶対に完成しない)電子図書館構想に予算をつぎ込み,図書を購入する代わりにインターネット端末とその維持費を少ない予算から捻出した結果として,(現実の)図書館が衰退していく事実.地道な文献調査を嫌ってインターネット上で研究資料を漁り,その情報を真実だと信じて疑わない若手研究者,図書館から姿を消した図書目録キャビネット,いつまで経っても実現しない「ビデオ・オン・デマンド」,一方通行のCAI(コンピュータ支援教育)などなどなど.いくつかは耳の痛い指摘.電子辞書は便利だけれども紙の辞書や辞典を手にとって調べる時の偶然の発見の面白さや,電子メールの無味乾燥さ,文法チェック・スペルチェックが装備されているのに,なぜ電子メールでは誤字・脱字が多いのか?
 多少,感傷的過ぎるかな,と思うくだりも多いのですが,インターネットの普及で便利になった点もあれば,何か失ってしまった点があるのは事実です.誰もが情報を発信できますが,それは本当に真実なのか,それを見極める目が育っている人ならば問題ないのです(発信する側も受信する側も).「本に書いてあったから」信じていけないのと同じように,いやそれ以上にインターネットに溢れている情報にはインチキが多いことに徐々にみんな気付いているはずです.”知恵の宝庫”であるという前提を取り除きましょう,”所詮,ガラクタばかり,中には本物の宝石も混じっている”,そう考えてインターネットと楽しく付き合って行こうよ,それがストール氏の薦めです.

[2003-09]
・「天空の蜂」 東野圭吾 (講談社文庫,ISBN4-06-263914-9,1998年)
 略奪された超大型特殊ヘリコプター,人質は稼動中の原子力発電所(高速増殖炉).爆薬を満載したヘリコプターを原発に墜落させたくなかったら,日本中の原子炉を破壊しろ.日本国民全員を脅迫しているはずなのだが,当事者であるニッポンジンにとっては(原発立地の住民以外にとって)他人事.ポイントは(1)「日本の原発は安全です」が本当ならばヘリを落とされても大丈夫なはず,(2)犯人の要求に従って全ての原発を停止したとしても電力不足が発生しないならば「日本の電力は原発が支えている」はウソ,(3)世間から不要だ嫌いだと言われながらも日本国として放棄できない原発と自衛隊,あたりでしょうか?
 誰かに指摘されるまでもなく,作者も登場人物も読者も「困った問題なんだよ,当事者なんだよ.まぁ理解しろと言っても無理か」という諦めが感じられる.ところが事実は小説よりも奇なりと言うのが適切かどうかは,この夏に確かめられる.そう,一連の不祥事の影響で大半の原子力発電所が停止したまま2003年の夏を迎えることになっている.電気は足りるのか?(足りないでしょう) どれだけの犠牲が強いられるのか?
 さて,サスペンス小説としてツボは抑えてあるが,詰めが甘いように感じられる.ディテールに凝っているようでポッカリと抜けているところもある.それとこれは個人的な好き嫌いだと思うが「○○は××なのだ」という語尾が私は好きではない.「いいから信じろ」と強要されているように感じて居心地が悪い.こういった細かい話は横においておいて,総括すると「前半だるいが後半は可」.


[2003-08]
・「人工知能とはなにか」白井良明

[2003-07]
・「電脳曼陀羅/改訂新版」 中村正三郎 ((株)ビレッジセンター出版局,ISBN4-89436-048-9,1997年)
 中村正三郎氏は1983年に九州大学工学部情報工学科修士課程修了,(株)管理工学研究所に入社して日本語ワープロソフト「松」シリーズや日本語FEPの「松茸」シリーズなどの開発に従事,1989年からは(株)ソフトヴィジョンに移り,パソコン向けの様々なソフトウェアの開発に従事した方です.本書の売りは,1993年当時,内容の過激さがマニアにウケていたPC雑誌「THE BAISIC誌」(通称「ざべ」)に同氏が連載していた「電脳曼陀羅」がマイクロソフト株式会社(米国マイクロソフト社の日本法人)からの圧力により休載に追い込まれた事件の経緯について裏も表も暴露している点です.泣き寝入りすることの多い類似の事例と異なるのは,休載に追い込まれた経緯を中村氏がパソコン通信のBBS(電子掲示板)に掲載してしまい,それが大論争を引き起こし,とうとう一般雑誌や新聞がスキャンダルとして取り上げて公になってしまった点です.マイクロソフト株式会社(の当時の社長)を激怒させたのは中村氏が書いた(私の目からみれば悪趣味だが,大企業が大騒ぎするほどのことではない)マイクロソフト(株)に対する批判的な内容の連載記事でした.前半部はこれらのドタバタが占めており,それなりにショッキングで面白いといえば面白いけれども,後味が悪い.なにがこの本の価値かと言えば,いまとなっては大昔の10年前,1993年当時のパソコン業界のトレンドが最新の話題として書かれていて,私たちの世代にとっては非常に懐かしいこと(ウゴウゴルーガにミカン星人ですよ!).また,この当時,将来はこうなると予想されているコンピュータ業界の技術や文化が10年後の現実とはどれくらいズレているか(あるいは当たっているか)を楽しめる点にあります.後半部分は対談集となっており,’94年から’96年に掛けて行われた対談(インタビュー記事)となっています.TRONの坂村教授,断筆宣言中の筒井康隆氏,シャープのザウルス設計陣などなど.
 実はこの本でもっともショッキングだったのはデザイナーの木本圭子氏のインタビューでした.ある日突然,市販のお絵かきソフトに満足できずにCG(コンピュータグラフィックス)をやりたくなって,Macでプログラミングを始めたそうです.主にTHINK Cを使ってプログラミングしているそうですが,最初に始めた時はMS-BASIC.文系出身でTHINK CどころかMS-BASICを使ってプログラミングを始めるのは大変だったろうと思いますが,入門書を読みながら勉強すれば何とかなるので特別に驚くことではありません.問題はMS-BASICの次です.「PostScript」(ページプリンタの記述言語).フツー,人間が触る言語じゃありませんって,PostScriptは.誰も(この無謀な行動を)止める人が周りに居ない状況で,独学でCG(=数学)を修得してしまった情熱は猛烈に熱いに違いない.

[2003-06]
・「富嶽/米本土を爆撃せよ」 前間孝則 (講談社,ISBN4-06-205543-0,1991年)
 著者は石川島播磨重工の航空宇宙事業部技術開発事業部でジェットエンジンの設計に20年間従事し,F104,PS1,F4Eファントム,P3Cなどを担当された方だそうです.私は軍事兵器に関する興味はあまりありませんのでマニアの方々のような熱意を持って国産戦闘機の物語を読み漁るつもりはありません.「ゼロ戦」「戦艦大和」を神格化して心の拠り所としているような発言をたびたび耳にすることに対する反発で「零式戦闘機」(柳田邦男,文藝春秋,ISBN: 4167240017)を読んだことがあります.飛行機後進国であった日本が外国の技術を素早く吸収して世界水準に追い付くような飛行機を作り上げた(短い)歴史は,多くの新発見があり勉強になりました.しかし「零式戦闘機」は三菱重工側(特にエンジニアの視点)に立って書かれた本だったので,別の視点から見た戦前・戦中の日本の航空史を読んでバランスを取りたいと思いました.しばらく経ってから古本屋で見付けたのがこの本.本作は同じく大戦中に多くの戦闘機・爆撃機を製造した中島飛行機の物語です.”B29の倍近い巨体,航続距離一万七千キロ,三万馬力—昭和16年当時の日本技術の総力をあげて取り組んだ幻の超大型爆撃機開発計画”と紹介には書いてあります.壮大な計画にナショナリズムが刺激された訳ではなく,手にとった理由は前述の通り.
 傑出した世界的な視点を持つ企業家で政治家の中島知久平が一代で築き上げた中島飛行機の歴史は終戦と共に幕を降ろします.彼が「太平洋を横断して米国本土を爆撃し,ドイツまで無着陸で飛行できる爆撃機を作らなければこの戦争に負ける」と内閣および軍部を説得し,社運を賭けて(「この戦争に勝っても負けても中島飛行機は潰れる」と考えていたらしいが)取り組んだ真意はどこにあったのか? 関係者の中には敗戦後の日本の未来を考えて基礎技術の蓄積のために実現不可能な仕様の爆撃機の研究を推進したとの考えを持っている人たちがいるそうです.事実だとすれば並大抵の企業家ではないですし,私の考えとも一致します.多くの人々が言うように,「零式戦闘機」を作った技術力が日本にはあったのだから,数十年の間,諸外国の航空技術から取り残された日本が,ちょっと本気になるだけでトップクラスの航空機を今すぐに作れるのでしょうか? これは飛行機だけの話ではなく,「Aという商品を作ったB社だからCの技術に関しては信頼できる」という企業神話に対しても私個人は懐疑的です.技術力は開発を継続していなくては必ず衰えると確信しています.個人的な話で申し訳ありませんが,私はソニー(株)のβ派でした.SL-HF3000(ベータプロ3000)という機種を(かなり無理して)購入して使用していました.ベータプロ3000はBetamaxのフラッグシップと名乗るに恥じない名機でした.ところがβはVHSとのシェア争いに敗れ,ソニーは安価で機能の少ない(ゴクラク)VHSを製造し始めました.この時期にβの開発グループは縮小されたと聞いています.そして’93年だったでしょうか,Hi8のフラッグシップとして登場したEV-NS9000を購入しました.ところがNS9000はベータプロ3000とは比べようのない幼稚なビデオデッキであることが判明し,すっかりソニーのビデオデッキに対する信頼が消え失せてしまいました.もうベータプロ3000のような本格的な家庭用ビデオデッキをソニーは設計できないでしょう.一旦,開発が途切れた後は,もう以前のような製品は作れないのです.製品の性能や性質は設計者/製造者個人および組織のもつスキルの影響を受けて(良くも悪くも)大きく変化してしまいます.
 これから社会に出て行くエンジニアの卵である皆さんに,なるべく早い時期に理解しておいて頂きたいのは,「会社に入ればなんとかなる」訳では無いことです.「1年間くらい研修があって,そこで設計開発に関する知識を教えてくれる」(このような助言をする先生も居ますがマチガイです)ということはありません.学校とは決定的に違います.OJT(On the Job Training)という言葉を入社直後から耳にすると思います.仕事を通して技術を自分で身に付けろ!ということです.格好良く言えば「技術は教わるものじゃなくて盗むものだ」ですね(私はこれ,嫌いです.疑問に思ったら先輩に質問し,議論して身に付けるべきです).ソニー(株)入社直後の私は「何も教えてくれないくせして仕事でミスを犯すと責任を問われるのは納得行かない」(いまから思うと噴飯もの)と心の片隅で考えていました.技術力とは一朝一夕で身に付くものではなく,知識と経験の蓄積に基づくセンスがあってはじめて未知の問題に対する解決の道筋を見出せるものだと考えています.したがって,時間が豊富で社会的束縛の少ない学生時代にこそ技術力を磨いておく必要があります.雑誌やマンガでかっこいい言葉を覚えて理解したつもりになるのではなく,常にアンテナを高く立てて多くの技術情報を吸収するように心掛けて下さい.アルバイトばっかりしていてはダメですよ! 反省に基づくお小言でした.

[2003-05]
・「すべてがFになる」("THE PERFECT INSIDER") 森 博嗣 (講談社,ISBN4-06-263924-6,1998年)
 ’96年4月に新書版で出版されたものの文庫版.先に白状しておくと,ソニーマガジンズ出版,浅田寅ヲ画のコミックスを偶然に古書店で入手して読んでしまっているのでストーリは先に知っていた.犀川助教授も西之園萌絵も国枝桃子ですら文章を読みながら頭の中に絵が浮かぶ.これは正解だったのか失敗だったのか分からない.読んでいる途中,読み終えた後,常時圧倒され続けた.読者としては幸せな反面,こういう作品(作家)と出会うたびに自分が作家の道を選ばなくて良かったと,しみじみと思う(本当に作家になろうと思ったことはない.比較的初期の段階で自分には無理だと諦められるくらいに良い本と出会えた).多少,計算機科学に関する知識が必要とされる部分もあるが,それ無しにも十分に楽しめる.「インクリメントイコール」や「インティジャ」などのテクニカルターム(術語)は表面的な目新しさに過ぎない.オタク的満足感を得たいのであればハードSFを(表面的な格好良さげな言葉を楽しみながら)乱読すれば足りる(あるいはネットワーク上に大量に溢れている素人作家の作品を2つ3つ読めば飽きる).文庫版のあとがきは瀬名秀明氏(「パラサイト・イヴ」などの著者,こちらも参照).森氏のユニークさであり「理系ミステリ」と呼ばれて他の作家と差別化されている本質はどこにあるのかが見事にまとめられている.道具立てや登場人物がサイエンティストであったりすることが多いミステリ作家ならば故アシモフ氏の名前が一番に挙げられるが,森氏の面白さとは何かが違う.その何かを知るには読んでみることが一番である.

[2003-04]
・「工学部・水柿助教授の日常」("ORDINARY OF Dr.MIZUKAKI") 森 博嗣 (幻冬舎,ISBN4-344-00908-8,2003年)
 ミステリィのベストセラ作家,森 博嗣氏のMSシリーズ.愛知県のN大学・工学部・建築学科で建築材料を専門とする水柿助教授が助手として赴任した三重県津市にあるM大学・工学部時代からの日常生活に潜むミステリィを綴ったフィクションである.妻の須磨子さんとの不思議な夫婦関係(補注1)についても深く踏み込んだフィクションである.そう,フィクションである.「文学部唯野教授」(筒井康隆)がフィクションであることの確信度に比べると極めて低いが作者はフィクションと言い張るので作り話なのでしょう.作者の森 博嗣氏は処女作「すべてはFになる」以降,あれよあれよという間にベストセラ作家の仲間入り.森氏は作中の水柿助教授と同様にN大学に実際に在籍する助教授(森 博嗣はペンネーム:訂正1,本名です)である.(これはいかにも大学内にウヨウヨ居そうなタイプの)助手の柏原君,講座のボスである高山教授の秘書・幸村葉子さん(これはI.アシモフの「黒後家蜘蛛の会」中のキャラクタである給仕のヘンリをモデルにしているのじゃないかと思われる)など,何人かの周辺人物は出てくるが,基本的に水柿君と須磨子さんに関する話題が中心.さて,森氏の作品であるが,もともとはウチの嫁さんが図書館で「封印再度」(副題"WHO INSIDE",「なんちゅータイトルだ!」が借りた理由)を借りて以降(訂正2),片っ端から読みまくっている影響で,私も興味を持った次第.立ち読みしたところ,変人=研究者なのか,研究者=変人なのか,研究者∈変人なのか,変人∈研究者なのか分からないが,工学系研究者の様々な事象に対する偏った視点(論理的とも偏執的とも言う)と拘り(ここで私もベストセラーではなくベストセラと連呼しているのにお気付きでしょうか?)に関して恥ずかしげも無く書き綴られていて,他人事とは思えず面白い.
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[訂正1] 
2003/4/23 ウチの妻から指摘がありました.ペンネームではなく本名だそうです.そうかぁ,本名か.「文学部唯野教授」(筒井康隆著)中の唯野教授とは違って著書が「芥兀賞」を受賞しようが第1回メフィスト賞を受賞しようが(確定申告の時期を除けば)問題ないか.名古屋大学工学部・社会環境工学科・建築学コースの講座紹介(
http://www.nuac.nagoya-u.ac.jp/pub/kouza.html)やBuilding Materials & Construction Systems Laboratory(BMACS:http://www.degas.nuac.nagoya-u.ac.jp/)も参照のこと.はい,きちんとウラを取らないとダメですね.
[訂正2] 2003/4/24 出版順序に従って「すべてはFになる」から読み進めたそうです.
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[補注1] 2003/4/24 私の目には”こんなんじゃ水柿君,須磨子さんに捨てられるぞ”と写ったのだが,ウチの妻の印象は違ったらしい.先に私が読んでから妻に渡した際に「反省しています.つけ上がりません」と申し訳ない気持ちで一杯だったのでした.「機械工学科・白井助手の日常」が妻の手で出版されないように家庭を大事にしなくてはいけない...

[2003-03]
・「誰も死なない世界」("THE FIRST IMMORTAL") ジェイムズ・L・ハルペリン (角川文庫,ISBN4-04-278802-5,1998年)
 第2次世界大戦で日本軍の捕虜になった経験のある医師ベンジャミン・フランクリン・スミスは心臓発作に襲われる.かねてから準備してあった通りに遺体は冷凍保存され,未来世界での復活に希望を託す.既に米国では実施されているクライオニクス(生物の冷凍保存に関する技術)をメインテーマにしている.啓蒙書と言っても良い.神から与えられた運命を受け入れられないのか.あるいは冷凍保存する際に細胞は破壊されるので解凍しても復活することなどあり得ないといった科学的な反証,はたまた法整備がなされていないために生じる様々な問題などにより,いちかばちかの勝負に出るヒトの数はそう多く無い.本書では一つ一つの問題を(例えばナノ・テクノロジーの力を借りて)取り除き,人類が半永久的な生命を手に入れる過程をロバート・A・ハインライン風のギリギリの楽天的な視点でSFに仕上げている.時間経過に合わせて世界情勢の変化・科学技術の進歩を時事速報風に挿入する手法はロバート・J・ソウヤーの「ターミナル・エクスペリメント」(THE TERMINAL EXPERIMENT)に似ている.マイクロ・マシンよりも更に小さなナノ・マシンによる遺伝子レベルでの人体改造に関しては,リンダ・ナガタの「極微機械 ボーア・メイカー」(THE BOHR MAKER)も荒唐無稽で面白い.IMMORTALは”不死の”,”不滅の”を表す形容詞,あるいは"不死の人","名声不朽の人",(複数形で)"(古代ギリシャ・ローマの)神々"を意味する名詞である.さて,不老不死を扱った作品としては,(1)そのように生まれついてしまった,(2)テクノロジーの進歩で克服する,の2つの方法がある.前者はロジャー・ゼラズニーの「わが名はコンラッド」(THIS IMMORTAL),ロバート・A・ハインラインの「メトセラの子ら」(METHUSELAH'S CHILDREN),「愛に時間を」(TIME ENOUGH FOR LOVE)のラザルス・ロング,後者では老人の脳を若者の体に移植するロバート・A・ハインラインの「悪徳なんか怖くない」(I WILL FEAR NO EVIL)がまず思い付く.その後のテクノロジー進化の影響で現れたのがサイバー空間に移住するもので,映画「マトリックス」やチャールズ・プラットの「バーチャライズド・マン」(THE SILICON MAN,フレドリック・ポールの「ゲイトウェイ4」(THE ANNALS OF THE HEECHEE),グレッグ・イーガンの「順列都市」(PERMUTATION CITY)あたりが面白い.ロバート・A・ハインラインといえば,名作「夏への扉」(THE DOOR INTO SUMMER)で恋人にも友人にも裏切られて絶望した主人公は,冷凍睡眠で近未来へ(愛猫の護民官ピートと共に)行く.ただしこの場合は不老不死ではない.惑星規模での大惨事が発生しない限り死なないとなったとき,ヒトビトの生き方,関係はどのように変化するのか? アリストテレスは「最高の善は幸福であり,良く生き,良く行為することが幸福である」あるいは「幸福は徳に伴う活動である」と言ったらしい(多少不正確かも).幸せな状態とは幸せになろうとしている状態ということでしょうか.ヒトが「天使のように行動しようと欲し,獣のように行動する」(パスカル)のはヒトが不幸にも「天使でも獣でもない」せいである.では,衣食住足りて死の恐怖を克服した時に天使のように行動できるのかどうか,私の目からみて物質・情報共に恵まれた近頃の学生さん達の振る舞いを振り返るに,これはナカナカ興味深いところである.アーサー・C・クラークは「3001年 終局への旅」で宇宙空間から回収されて生き返った宇宙飛行士ブールに限りある生の大切さを語らせるらしいが,これはまだ読んでいないので楽しみにしておこう.
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[補追] (2003/4/28) 「オープン・ユア・アイズ」('97年スペイン,監督・脚本・音楽:アレハンドロ・アメナーバル,主演:エドゥアルド・ノリエガ,ペネローペ・クルス)およびそのハリウッド・リメークの「バニラ・スカイ」(2001年米国,監督:キャメロン・クロウ,主演:トム・クルーズ,ペネローペ・クルス,キャメロン・ディアス)も無限に近い悪夢に陥るメカニズムは仮想空間における死後の世界という点で近い.強制的に人生を繰り返させられるという点では理由もメカニズムも全く別だが「リプレイ」(ケン・グリムウッド著)や「仮想空間計画」(ジェームズ・P・ホーガン著)もお薦め.

[2003-02]
・「沈んだ世界」("THE DROWNED WORLD") J.G.バラード (創元SF文庫,ISBN4-488-62901-6,1962年)
 6,70年前から始まった地球物理学上の変動により地球上の主要都市は水没し,高温・多湿の世界になったという状況設定.主人公ケランズは国連より派遣された調査隊に加わった植物学者.温帯域は南方からどんどんと北上を続けている.廃墟での調査を終えて北へ移動しようとしていた調査隊の隊員の中に悪夢に悩まされるものが一人,また一人と増えていく.「南へ向かうのだ」,夢は彼らにそう訴え始める.終末小説として有名な「渚にて」(グレゴリー・ペック主演で映画化)とは別の意味でノーヒューチャーな暗い作品.当時,米国を中心に能天気とも言える正統SFが栄えていたのに対して,バラードは,サイエンスを道具立てにした文学的小説を発表し始めた英国ニューウェーブの一人ということらしい.ヒトは何故,クモやヘビを見て”嫌な生き物”と感じるのか? それは進化の過程で遺伝子に書き込まれた,いわば記憶であると作中の老科学者は仮説を述べる.終末を迎えようとしている人類が絶望からではなく,本能に導かれて死を意味する酷暑の”南”へ向かおうとするのが何故なのかは明らかにされない.単に種として絶滅することを望んでいるのか,それとも進化・適応のカギが開くのか?(ラリー・ニーヴン的な発想) 結局,スッキリしない話だが,登場人物一人一人の役割が明確で,頑として行動を貫く個人主義の徹底が妙に心地よい.

[2003-01]
・「カーマーカー特許とソフトウェア」 今野 浩 (中公新書,ISBN4-12-101278-X,1995年)
 副題:”数学は特許になるか”.1984年にAT&Tベル研究所のカーマーカーが発見した線形計画法を従来の手法に比べて50〜100倍も速く解くことができるアルゴリズム.当時の主流であった単体法とは全く異なるアプローチであった内点法は常識を覆す発想の転換であった.しかしこの数値解析アルゴリズムを”特許”として認めるべきか,否か.産業界でも法曹界でもなく,学術世界の立場から,ソフトウェアを特許として認定することの当否を論じる.著者の今野教授は日本における数理計画法の第一人者であり,AT&Tとカーマーカーが巻き起こした特許騒動の一部始終を最前列で体験した貴重な経験を詳細にまとめた.確かにこの数年,ソフトウェア関係の特許でいろいろと問題がありました.ブリティッシュ・テレコム社の潜水艦特許(ある日突然,審査に合格して公示される特許)の問題(”Webの発明”)や(R.ストールマンの言葉を借りれば「くだらない特許」)amazon.comのワン・クリック特許.ユニシス社のもつLZW符号(Lempel Ziv Wilch)の影響でライセンス問題が発生している画像ファイル形式のGIF(参照),高額なライセンス料が批判を浴びたMPEG4.BTのWeb発明の件は別として,それ以外の例は,応用範囲が限られているので比較的問題は少ない.しかし線形計画問題(多元連立一次方程式の最適解を求める手法)はどうか.あまりにも基礎的(簡単な,という意味ではありません)な数学の問題であるだけに現在の応用分野,将来の応用分野を考えると産業界に与える影響は非常に大きい.これを一企業(あるいは個人)が独占してしまっていいのか? 日米の特許制度の違いや政府間の力関係および時代背景に基づく制度変遷の歴史や,特許の本来の目的はなんだったのかを再考させられる訴訟亡国問題など,非常に濃くてエキサイティングな内容でした.

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