(2004年)

[2004-22]
・「まどろみ消去」 (Missing Under The Mistletoe)  森 博嗣・(講談社文庫,ISBN 4-06-264936-5, 2000)
 Mistletoeはヤドリギ.Kissing under the mistletoeでヤドリギの下でのキス.ちなみにヤドリギは宿木あるいは寄生木で,落葉広葉樹に寄生する常緑低木.クリスマスの装飾に用いられる.ヤドリギの装飾の下に立つ少女にはキスをしても良いと言う風習がヨーロッパにはあるらしいが,日本人は真似をしない方が賢明です.
 本作は短編集です.はっきりいってこれは同人誌向けの習作のような奇想や独りよがりな作品が多いので,そういうもの(=マニア向け)が好きな人のための本です.

[2004-21]
・「臨機応変・変問自在」 (森助教授VS理系大学生)  森 博嗣・(集英社新書,ISBN 4-08-720088-4, 2001)
 先に読んでしまった「臨機応答・変問自在2」の1作目. パート2がインターネットで公募した質問集なのに対して,本作はオリジナル,森助教授が20年近い大学教官生活の中で集めた質問とそれに対する回答集である.森助教授の担当教科に定期試験は無いらしい.その代わり毎回の授業の終わりに,各人から”質問”を集め,「成績は質問の内容でつける」(もちろん,通常の試験を望む者には試験を行うが,10年間で3人だったらしい).さて,パート2の方では質問がいかにも頑張ってヒネりましたぜという努力が見えて面白くなかったので,きっとパート1はもっと面白いのだろう(だからパート2が出たのだろうと予測)と期待していたのだが,面白くない.大半を割く質疑応答よりも,実はもっとも読ませるところは”まえがき”にある.森氏のミステリ作品の登場人物同様にエキセントリックな意見を主張しつつも,その主義主張の元になる論理過程はきわめて真っ当であることが分かる.自説に酔うこともなく押し付けることもない姿勢は好感が持てる.おお,なるほど,じゃあ,僕も試験を止めて質問を集めよう.などと,流されたら負けです.(ところでJABEEにはどう対応するのだろう)

[2004-20]
・「カエアンの聖衣」("The Garments of Caean")  バリントン・J・ベイリー(Barrington J. Bayley)/冬川 亘・(ハヤカワ文庫,ISBN 4-15-010512-X, 1978)
 「服は人なり」.宇宙は2つの文化圏に分かれている.ジアード人(比較的フツーの文化をもつヒトビト)と衣装哲学を奉じるカエアン人.着る衣装により人の外見のみならず内面も影響を受けるのは我々も感じていることでしょう.サラリーマンはスーツ,製造業なら作業服,バイクに乗るにはバイク乗りの装備,警察官やガードマンは制服や装備で身を固めると同時に接する相手に自分が何者かをアピールする.肩書きや外見に合わせて中身の人間も立ち居振る舞いが変化する.これを突き詰めたのがカエアン人の文化であり,それを毛嫌いするジアード人はともすれば下卑た野蛮人のようですらあるのだが...
 ジアード世界のしがない服飾家ペデルが偶然手に入れた全世界に5着しかない大天才フラショナールの手になるブロッシム・スーツ.身に纏った途端に彼を魅了すると同時に彼に絶大な力を与える.ペデルは権力を得ると同時にスーツに操られている自分に恐怖を覚えるが,もう手放すことはできなくなっていた.
 カエアン人の文化は装飾により人間の魅力を引き立たせる,という次元を超えて,メガネが顔の一部であるかのごとく(←そんなわけない),服飾が体の一部であり,切り離すことができないところまで到達していた.ジアード人から見ても,あるいは我々からみても病的な状態にあることが後半部で徐々に明らかになる.服に操られるロボットのようなカエアン人に対する生理的な反発からジアード社会はカエアン製の衣服の流通を禁じている.しかし服飾文化を野蛮なジアード人に広めようとするカエアン人には悪意が無い.ジアードとカエアン,二つの文化圏の間に開戦の機運が高まる.
 「服は人なり」といった小さな着想から,荒唐無稽な舞台設定を設ける本作はセンス・オブ・ワンダーのSFの王道をいく”ワイドスクリーン・バロック”に分類される.アーサー・C・クラークやジェームズ・P・ホーガンといった論理的にあり得る未来社会と科学技術を核として物語を形作るハードSFに対して,J・G・バラードやコードウェイナー・スミスのような文学的な物語を紡ぎだすための道具の一つとして科学技術を用いる文学的SF.それに対してワイドスクリーン・バロックは観念(アイディア)に重きを置く(あとがき参照).少し古い作品であり,萌えるところの無い生々しくも可笑しいSF作品なので,近頃の若者には少々とっつき難いかな.

[2004-19]
・「ブレイン・ヴァレー」 瀬名秀明(角川文庫,ISBN 4-04-340502-2, 1997)
 上下2冊組の長編だったのが,読了までに時間を要した理由ではありません.失礼ではありますが,「パラサイト・イヴ」のような次のページが気になって途中で読むのを止められないといった作品ではありませんでした.本作は「パラサイト・イヴ」同様に膨大な学術論文や書籍の調査に基づいた,きわめて下地のしっかりとした真面目なフィクションです.ただ,本作はその資料から集めた情報を十分に煮詰め切る前に網羅的に物語の枠に嵌め込んでしまった感じが強いですね.
 舞台は日本,山奥の最新脳科学総合研究所「ブレインテック」.脳科学者の孝岡はこの研究所に着任直後,エイリアンに拉致され生体実験を施される超常現象(アブダクション体験)を体験する.この山奥の村で発生する超常現象やブレインテックで行われている脳科学に関する数々の研究は人類を更なる進化に導くための壮大な計画の一環でしかなかった.こう聞くとかなり荒唐無稽な話に聞こえる.本作の論理的な柱は,まず臨死体験やアブダクション体験は脳内の生化学的な現象であると仮定することにある.これだけではあまり新規性はない.おっと思うのはここから先で,ではなぜそのような仕組みが人間の脳には仕込まれているのか→(自分たちよりも優れた高次の存在である)”神”の声を聞くためのメカニズムではないか?と仮定.フィクションとして話を盛り上げるためにもう一段階.では,現在の我々が聞くことができる神よりも優れた神の声を聞くにはどうしたらよいのか?と展開していく.
 舞台装置や張り巡らされた伏線,キャラクタ設定などは申し分ないのに,冗長で,読んでいて気持ちが引き込まれなかったのはなぜか.主人公のポジションが中途半端だったのが一因である.巨大なプロジェクトに翻弄されるだけで,孝岡自身が問題を解決していくどころか,アブダクション体験etc...に巻き込まれて精神的に疲弊していくだけ.ロマンチックな要素も(期待はさせるのだが)まったく無い.

[2004-18]
・「パラサイト・イヴ」 瀬名秀明(角川ホラー文庫,ISBN 4-15-050025-8, 1995)
 なぜ今頃?と思う.映画もTVで観た.著者と恥ずかしげも無くツーショットの写真まで撮らせていただいた
.でも,実は「ロボット21世紀」の1冊しか読んでいなかった.著者の瀬名氏は大学院博士課程を修了した工学者であり作家でもある.1968年生まれなので私と同年齢.同じく工学者でありながら作家でもある人物としては,↓のアイザック・アシモフ博士や森博嗣氏も同様である.アシモフ氏はSF作品やホラー作品には,あまり工学者くささを持ち込まず,どちらかと云えば飲み屋にいる妙に博識なオヤジといった感じにカモフラージュされている.森氏の場合は思考の指向性であったり小手先のネタとして用いられるところが面白味であって,登場人物が自分の専門分野の知識を前面に出して活躍する場面というのは,ほとんど無い.瀬名氏の本作および次回作の「ブレイン・ヴァレー」(いま読んでいる最中)は,国産SF(ホラー?)としては類を見ない正真正銘のハードSF.登場人物は専門職としての知識・技能を門外漢である我々読者に(良い意味で)気遣うことなく,存分に発揮してくれる.
 本作では,細胞内に共生しているミトコンドリアが人類に対して反旗を翻すという(冷静に考えると少々難のある)ストーリーを核としている.実は映画と本作とではラストシーンに(私の記憶が確かならば)違いがある.映画の方が原作よりもロマンチックな落とし方をしていた.分かり易いストーリー展開にせざるを得ない映画という制約の中では,うまく原作のストーリーを損なわずにまとめられていたな,と感心した.映画では(登場して直ぐに死亡する)聖美の役を葉月里緒菜が演じていたが,原作のイメージとよく一致している.
 さて,多少強引なミトコンドリアの大冒険というストーリーよりも,強烈なインパクトを受けたのが,日常生活では触れることない臓器移植に関する緻密な記述である.なぜ移植が必要なのか,移植のメリットとデメリットとリスク,生体だけではなく心理的な影響など,全てを詳細に記述されると移植に対してポジティブな立場をとっている私も一歩腰が引ける.多分逆なんだろう.デメリットやリスク全てを明らかにすることで,無知に基づく差別や偏見(「自分の娘が病気ならば腎臓の一つくらい提供するのが親ってもんだろう?」,「肝臓は再生する臓器だから,いざって時は移植すれば大丈夫」など)が払拭されるべきなのだろう.
 確か九州工業大学に編入した頃だったので’90年頃だったと思うが,当時まだあまり知名度の高くなかった(財)骨髄移植推進財団の骨髄バンクに登録した.高専を卒業して九州に引っ越した年に高専の同級生が,正式な病名は分からないが血液性のガンだと思う,で亡くなった.骨髄移植を受けたのだが治癒しなかったとも聞いた.結果はともかく,ドナーが見付からない限り治療の可能性が閉ざされる.登録した後,財団からは定期的にニュースレターが届くし,何度も引っ越すたびに住所変更を行ってきたのだが,HLA型の一致する患者さんは現れなかった.それが約10年経過して突然連絡が届いた(厳密な年月日を公開してはいけない決まりなので書きません.鈴鹿高専に着任したこの数年の間のことです).簡単に言ってしまえば骨盤の蝶骨に太い注射針を挿して何十箇所(皮膚にあける針の穴は左右一つずつ)から少しずつチュゥゥ〜と骨髄血を抜き取り,それを患者さんの血管に点滴を通して送り込む手術である.患者さんは事前に抗癌剤および放射線で全身の骨髄を根絶される.点滴された骨髄血は自然と骨の中(コーディネータ氏いわく”居心地の良い場所”)に定着し,機能を徐々に回復する(ただし病気が完治する確率は5割以下).
提供者である私は全身麻酔をすることになる.連絡を受けてから実際に手術するまでに,何度もコーディネータの方や執刀医の先生から説明を受けていたが,TVニュースで時折報じられる医療過誤の事故や後遺症の心配は無視できない.嫁さんは猛烈に心配していたが骨髄提供には賛成してくれた.まったくの健康体での2泊3日の入院は,かなり精神的に堪えた.抗癌剤(と思われる)の点滴を受けている患者さんたちと一緒の部屋でガツガツと食事を平らげることの後ろめたさ(私の骨髄の提供を受ける患者さんは別の病院に入院している).もう骨髄提供を行ってからかなり経つが,まだ腰痛が残っている.生活に支障はないし,もしかしたら生活習慣に基づくもので骨髄提供とは無関係かも知れない.寝不足で無理をしたり,重い荷物を持った後に疼く腰痛に,つくづく大病を患わないで済んでいるのは幸運だと実感する.

[2004-17]
・「わが惑星、そは汝のもの」("The Stars in Their Courses") アイザック・アシモフ(早川書房,ISBN 4-15-050025-8, 1971)
 ”アシモフの科学エッセイ第5弾”.近頃さらに手に入れるのが困難になってきた天才アシモフ(故人)の科学エッセイ集.1章から順に,天文学・物理学・科学・社会学,それぞれの分野に関する大発見や大発明,偉業の数々を深く広く厳密に調べ掘り下げる.優れた業績には最大限の敬意を,そしてウソや迷信には怒りを隠さない.そう,今回は特に怒っている.占星術しかり,特にラストの人口問題は格別にアシモフらしい(ちょっとやり過ぎ).繰り返しになりますが,新本・古本構いません,”アシモフ”という名前を見たら即買ってOKです.

[2004-16]
・「封印再度」("Who Inside") 森 博嗣(講談社文庫,ISBN 4-06-264799-0 , 2000)
 「詩的私的ジャック」のラブコメ路線が更に強化され,登場人物(警察関係者など)もその延長線上にある.犀川・西之園シリーズの折り返し点かどうかは,この先の作品を読まなくては分からないが,ラブコメも推理劇も今まで読んだシリーズ中では一番良くできている.実は頭1/5程度は謎が謎らしくなく,この先が退屈になりそうに感じたので少し飛ばし読みしていたのだが,物語中盤での「!」で急激に反転,犀川はじめ登場人物の個性がシリーズ当初と同じくらい光り始める.特に犀川の犀川らしさと,らしくなさ,の表裏を十分に楽しめる.トリックにも無理(一部除く)や無駄がない.なによりもタイトルが秀逸.

[2004-15]
・「詩的私的ジャック」("Jack The Poetical Private") 森 博嗣(講談社文庫,ISBN 4-06-264706-0 , 1999)
 「笑わない数学者」とは趣がかなり異なる.より一層,ヒロイン西之園萌絵を中心としたストーリ展開になっている.そしてラブコメ(?)路線が強まっていて,犀川にもはや逃げ場はない.今回はパズルが無くてちょっと寂しいが,この後の作品にも繋がる人間関係の広がり(警察関係者)があり,タイトルは地味(というよりも意味不明)な割には,期待を裏切って面白い作品だった.いやしかし,これでパズルがあればなぁ.

[2004-14]
・「てのひらの闇」 藤原伊織
(文春文庫,ISBN 4167614022 , 2002)
 「ひまわりの祝祭」「テロリストのパラソル」の藤原伊織作品.この2作の主人公(中年男性)は”何が凄いのかよく分からん”し,流れに乗せられて気付くと事件が解決しているという感じが強く,ハードボイルドなのにハードボイルドなのか?という微妙な違和感が面白かった.本作の主人公・堀江は裏付けのある凄い奴である.物語全編を通して風邪引いてフラついているという微妙にリアルな設定をハンデとし,そのスーパー課長ぶりをカモフラージュするという作者の荒業には脱帽した.後半,風邪による熱が下がり始めると同時にハードボイルドの主人公らしくなるに従って,緊迫感が薄れてしまうのが勿体無い.色恋沙汰の伏線を引きまくった挙句に全てボヤかすストイックさも,藤原伊織,相変わらずである.

[2004-13]
・「天才アームストロングのたった一つの嘘」("The Truth Machine") ジェイムズ・L・ハルペリン(James L. HALPERIN)/法村里絵[訳](角川文庫,ISBN4-04-278801-7, 1996)
 平成10年11月に邦訳されて出版された本作品は全571ぺージで本体価格1,000円.文庫本が1,000円を超える日がやって来るとは思わなかった.さて,本作の作者ハルペリンは,テキサス州ダラス在住,世界最大規模の稀少コイン販売会社を経営しているビジネスマンらしい.本書が作家としてのデビュー作.その後,「誰も死なない世界」でクライオニクス(人体の低温長期保存および蘇生技術)技術を核とした未来社会を描く.
 「誰も死なない世界」は”不死を実現する技術が定着したら?”というIF作品であった.その前作である本作は”嘘を100%確実に判別できる技術が定着したら?”がテーマである.表現に工夫をしたのは”技術が定着したら?”という前提である.クライオニクス,完全なる嘘発見器(以下,トゥルースマシン)共に技術的に実現が困難であるが,それ以上にその技術を定着させることが困難であることは容易に想像が付く.この作者が楽しむのは,技術の細部を描き込むハードSFの要素に留まらず,その技術を”現在の社会に”定着させることで世の中がどのような変革(独善的なほどの楽観思想に基づくハルペリン好みの理想社会)を迎えるのかを時系列に描くことにある.
 トゥルースマシンが社会に定着することで,第1ステップとして裁判が簡略化される.さらに第2ステップとして,誰もが何らかの機会(例えば免許証の更新でも良いし,就職試験でも良い)においてトゥルースマシンによる犯罪歴のチェックを行うことで埋もれていた犯罪が白日の下に晒される.そして第3ステップ,誰もが携帯式のトゥルースマシンを装着することで自分は嘘をついていないことを示すようになる,つまり世の中から全ての嘘が消える世界がやってくる.ステップ1,2は凶悪犯罪件数ダントツ地球一の地位を誇るアメリカ人にとって,単なるウサ晴らしでは済まされない生きるか死ぬかの現実問題を突きつけることで,「あの〜,嘘も方便って言いまして...」,「で,でもでもプライバシーは尊重すべきであって...」を捻じ伏せ,「それより前に銃規制を行うべきじゃないのか」などという半端なステップを一気に飛び越える.「バトルロワイヤル」「国民クイズ」のような全体主義による完全管理主義で見せ掛けだけの平和な世界を築こうなんて甘い,甘い.とはいえ,思いっきり右傾化した2004年米国大統領選挙終盤戦の戦いと結末を見るに,トゥルースマシンがアメリカの近未来においてどのように扱われるのか,もう一度想像し直した方が良さそうですぜ,Mr.ハルペリン.
 第3のステップに関しては語調が弱い.商取引から駆け引きが無くなることで交渉がスムーズになるという効能を挙げている.なるほど,「いやぁ他社さんからは**円で良いっていう見積りを頂いているんですよ」(ピー),「...ウソでしょ?」.ちなみに都合の悪い質問には答えないという手段も可能か.「**円でも利益でるでしょ?」「ひ・み・つ」.
 「誰も死なない世界」がクライオニクスの啓蒙書色が強すぎて辟易したのと同様に,実は本書もほとんどハルペリンの独善的な妄想で形作られている.近未来に起こる社会情勢を予想し,それをニュース形式で挿入する手法は,その妄想の正当性を強力に後押しする.多少,ウンザリするところもあるが,物語の緻密さ,(ご都合主義過ぎるとはいえ)構築した世界の完成度はかなり高いし,なによりも実は読んでいて面白かった.「おいおい,それでいいのか,アメリカ人」と突っ込みを入れながら堪能して下さい.

[2004-12]
・「笑わない数学者」("MATHEMATICAL GOODBYE") 森 博嗣(講談社文庫,ISBN4-06-264614-5, 1999)
 「すべてがFになる」,「冷たい密室と博士たち」に続く森博嗣の”理系ミステリ”第3作目.「フェルマーの最終定理」と並行して読んだのは単なる偶然です.作中の登場人物が銃で撃たれて運び込まれたのと同じ津市の大学病院の病棟のベッドの上で読んでいたのも偶然です.
 前2作に比べてラブコメ度合いが高くなっている.さらに作中に数学的なパズルや小ネタが散りばめられているせいか,前2作よりも楽しめた.
 
では作品中より抜粋,「五つのビリヤードの玉を,真珠のネックレスのように,リングにつなげてみるとしよう.玉には,それぞれナンバが書かれている.さて,この五つの玉のうち,幾つ取っても良いが,隣どうし連続したものしか取れないとしよう.一つでも,二つでも,五つ全部でも良い.しかし,離れているものは取れない.この条件で取った玉のナンバを足し合わせて,1から21までのすべての数ができるようにしたい.さあ,どのナンバの玉を,どのように並べて,ネックレスを作れば良いかな?」
 まずこの問題の意味が理解できるかどうか.小説中では図を用いていませんので,自分で図を書きながら問題を理解して下さい.理解できたら,次はこの設問を論理的に解く上で明白な事実を見つけて下さい.(a)1と2のナンバの玉は必ず必要,(b)22以上のナンバの玉は不要.ところで同じナンバの玉があってはいけないのか? 頭の隅に残しつつ,先に進みましょう.
 ここから先はどうやって解くか.
多くの解答例がWebに公開されているので自分で考えた後に探して見て下さい.(a)数学的に解く,(b)紙とペンと脳みそを使って試行錯誤で解く,(c)コンピュータを使って探索的に解く.多くの人は(b)で解いたでしょう.先に私が書いたように1と2のナンバの玉は必須なので,残り3個を探す問題です.私もそこからスタートしてペンと紙で解きました.(c)は私も先日試してみました.コンピュータを使って全ての組み合わせを試してみる方法です.最大のナンバを21とし,同じナンバの玉があっても構わないと考えても21×21×21×21×21=408,4101通りしかないのですからコンピュータならば一瞬で計算できます.ちなみに答えは一組だけ,そしてその5つの玉の中に同じナンバの玉は存在しませんでした.玉の数が六つ,七つ,八つと増えると組み合わせの数が爆発していきますので,そうなると工夫が必要です.(答えを右に図示します.私が作ったプログラムはこれ,実行結果はこれです.参考にして下さい)
 (a)で問題が解けた人は更に玉の数が六つ,七つと,五つ以上の場合の問題(合計の数を求める)を作ってみて下さい.
 ちなみに「フェルマーの最終定理」の終盤に,有名な「四色タイル問題」がコンピュータを使った総当り式の探索で証明されたことに危機感を提起する記述があります.なるほど,確かに工学者である私も安直な方法に逃げてしまいましたが,本来は(a)の数学的な方法で解を求めるべきでした.すこし反省.一方,月刊ASCIIの2004年12月号で,「N-Queens問題」の世界記録(N=24)の数値解を日本人の研究者がXeon-2.8GHzを68台搭載したクラスタマシンで解いたという記事がありました.「四色タイル問題」同様に,数式による解析で解くための解法が見つかっていない問題であり,人工知能分野の初期の研究で「巡回セールスマン問題」同様に”難しい問題”として頻繁に取り上げられた問題です.(人工知能言語Prologの例題として私も習いました) 反省した直後に言うのもなんですが,コンピュータパワーに頼らなくてはならない問題はまだまだたくさんあるのが現実です.
 さて,ではもう一題.作品中から抜粋します.地面に大きな円を書き,その円の中心に立った老人が少女に問います.「円の中心から,円をまたがないで,外に出られるかな?」 (ヒント:地球は球体です.ちなみに地面に穴を掘って外に出るのは禁止します.そして答えはナルホド!なのですが,ちょっとズルいです)
 さらにもう一題,これは私が学生の頃に先生が授業中に出した問題です.答えはかなり意外なものですが,中学生程度の幾何学の知識で解ける問題です.”地球の赤道上に一本のロープを巻き付けたとする.このロープにさらに1メートル追加する(つまり全長は40,000,000メートル+1メートルで40,000,001メートル).さぁ,緩んだロープを地面から全周均等に持ち上げた時の高さは?”(答えはこちら

[2004-11]
・「フェルマーの最終定理」("Fermat's Last Theorem/The story of a riddle that confounded the world's greatest minds for 358 years") サイモン・シン(Simon Singh)/青木 薫[訳](新潮社,ISBN4-10-539301-4, 1997)
 本年の夏休みの読書感想文の課題図書にもなっていた本作.358年間,多くの数学者が取り組みながら証明することができなかった有名な定理「x^n + y^n = z^n この方程式はnが2より大きい場合には整数解をもたない」が’93年,アンドリュー・ワイルズによって証明された.本作はフェルマーの最終定理が証明されるまでの経緯を辿るとともに,ピュタゴラスから始まった数の神秘を見つけ出す学問,数学の世界の歴史を分かり易くまとめた啓蒙書でもある.月に足跡を残し,原子力を(不安定ながら)操り,インターネットで世界が覆われ,携帯電話が小学生の手にまで普及した科学万能の世の中,もう謎は存在しないと思っていませんでした? 勉強を重ねて学問の世界を知れば知るほど,世の中には原理の分かっていない現象が山のようにあることを皆さんも知ることになるでしょう.楽しみにしていて下さい.まだまだお楽しみは残されています.
 ちょっと気になったところがあります.数学者は論理的な議論を展開して厳密に課題を証明するのに対して,科学者(工学者という意味合い?)は実験によって問題を解決しようとすると対比させている記述があります.数学者という,ある意味,非生産的な人々(注意:批判的な意味ではありません)に光を与えるためにこのような記述をしたのだと思いますが,鵜呑みにしないで下さい.科学者も証明を好むし,学術的に認められるためには証明が必要です.
 短命に終わった悲運の数学者エヴァリスト・ガロアをはじめ,フェルマーの最終定理を証明する大きなステップとなった谷村=志村予想,現在の暗号化技術の核になっている楕円方程式など,非常に多くの情報がうまい順序で構成されているためとても読みやすいです.当然,1回読んだだけではすべての情報が頭の中に記憶され,理解できるわけではないので繰り返し読むことになると思いますが,それだけの価値はあります.
 「役に立たないから面白い.音楽にしたって,絵画にしたって役には立たない.こんなことを考えるのは人間だけだ」という意見もあります.そして森博嗣に続きます(笑).

[2004-10]
・「二人がここにいる不思議」("The Toynbee Convector") レイ・ブラッドベリ(Ray Bradbury)/伊藤典夫[訳](新潮文庫,ISBN4-10-221105-5, 1988)
 「何かが道をやってくる」,「華氏451度」,「火星年代記」など,幻想的なファンタジーSFで熱狂的なファンをもつブラッドベリの短編集である.主に80年代に書かれた作品.正直な感想を述べると,前述の長編作品に比べて神通力が欠けている...悪くはないが,べた惚れするほどの力作はない.ちなみに「バンシー」という短編は実話である.アイルランドの片田舎の邸宅で待つ大映画監督ジョン・ハンプトンの元に書き上げたばかりの脚本「巨獣」を持って訪問する若い作家ダグラス・ロジャーズは,この大映画監督の横暴な振る舞いにキリキリ舞いさせられる...大映画監督は巨匠ジョン・ヒューストン,作品は「白鯨」である.以前,レイ・ブラッドベリのインタビューをTVで見たときに,”実に腹立たしい思い出”といった風に語っていた.相当悔しかったのだろう.それを臆面も無く作品に仕上げて公表するガキっぽさ.代表作のイメージから勝手に組み立てていた繊細でノスタルジックな心を持ち続ける,といったような美しいブラッドベリ像はそのインタビューでガラガラと崩れたが,その反面,妙に納得もした.立派な紳士ではまったくなく,いつまでも幼稚で手間の掛かるやんちゃな子供のような人物という印象である.書店で働いていた奥さんとの馴れ初めも彼らしい逸話である.ジッと彼女に見つめられたブラッドベリは「オレに気があるのか?!」と舞い上がるが,実際はロングコートで店内をウロつく不審人物が万引きする現場を捕らえようと監視していたに過ぎなかったという次第.
 短編はいまいちでも,冒頭に挙げた作品群は傑作です.一読を薦めます.「何かが道をやってくる」,「華氏451度」は映画化されています.特に前者は原作に非常に忠実な美しい映画です.さて,マイケル・ムーア監督のドキュメンタリー映画「華氏911度」が世の中を騒がせていますが,当然ながらこれは「華氏451度」のタイトルのパクリです.それくらい有名な作品で有名な作家です.「華氏451度」は,戦争の影が覆う暗い現実から人々の目を逸らすために焚書が行われ,人々はすべての壁をスクリーンに囲まれた部屋にこもりヘッドホンで耳を覆って過ごす未来社会を舞台とした話.華氏451度とは紙が燃える温度とのこと.マイケル・ムーアは非常に良いタイトルを映画につけたと思うのですが,当のブラッドベリ氏は不愉快だそうです.まったく,レイったら.

[2004-09]
・「ぼくが医者をやめた理由」 永井 明(角川文庫,ISBN4-04-344701-9, 1993)
 「”立派なお医者さん”目指して奮闘していた著者が,なぜ医者をやめたのか?」,'47年広島生まれ.昭和48年に医大を卒業後,10年間,医者として2つの病院で働いた後,医者を辞め,作家となる.作家になりたかったから医者を辞めたわけではない.医者としての能力が水準に達していなかったという訳でも決してない.現状の医療制度への絶対的な批判からメスをペンに変えて戦っているわけでもない.私の解釈がもしかしたら間違っているのかも知れないが,”急にイヤになってしまった.イヤになったものは仕方がない”という感じである.著者本人も分からないと書いている.”病院勤めで垢のようにたまった違和感が内部処理できる臨界点に達してしまったから”.いったい10年間に感じた違和感とはなんだろうか.実際に受け持った患者の治療体験とその時に感じた感情を文章化することで明らかにしようと試みている.懺悔ではなく,告発でもなく,日本中で毎日繰り返し行われている患者と医者の間のありきたりな物語の一部に過ぎない.ただし本作の話は10年間の医者生活のうちの最初の2年間の研修医時代の事例のみである.
 ”まったくもって,生きていくのは難しい”と永井氏は最後に一言書き記している.人生には生きがいが必要である.仕事かも知れない,家族かも知れない,趣味かも知れない.平成不況と言われつつも仕事が無いわけではない現在の日本の日常の中,自分の生き様に一点の不満も不安も無く生きている人はどれくらいいるのだろうか? 命を救う重責から逃げた永井氏を批判する人もいるかも知れない.永井氏自身もこの問題を中途半端にすると自分自身が根無し草になる不安感を払拭できるかも知れないと期待して過去を振り返っている.学校を卒業して社会人として自立する過程で,あるいは会社勤務を始めて数年経ったあたりで多くの若者がこの不安感に襲われる.かつて五月病と呼ばれていたものと微妙に違うような気がするのだが,どう違うのか,今度,時間があるときに考えてみよう.屈託なく生きられる人たちは幸せな人たちである.私自身も4年間勤めたエンジニアとしての仕事を辞めて研究者への道に踏み込んだ前歴がある.不満だったのか,不安だったのか,実はよく分からない.なんとなく両方だった気がする.その反動か,仕事を形に残したいという強迫観念がある.どうやら生きがいは仕事のようだが,ベストを尽くそうと足掻いた挙句に空回りしているようである.
 著者の永井氏がAsahi.comに連載していたコラム「メディカル漂流記」を毎週楽しみにしていたのだが,永井氏は'04年夏に急逝した.亡くなられる直前のコラムは広島での少年時代を振り返った非常に力の入ったコラムで,明らかにそれ以前のコラムとは著者の思い入れの度合いが違った.どうしたんだろうと思った矢先の訃報だった.本作はその訃報を聞いて,初めて手にした.

[2004-08]
・「屈託なく生きる」 城山三郎(講談社文庫,ISBN4-06-185092-X, 1992)
 ちょっと古い人たちばかりだが,長島茂雄(プロ野球選手・監督),武田 豊(新日本製鉄元社長),岡本綾子(プロゴルファー),盛田昭夫(ソニー(株)創業者),加藤紘一(政治家),広中平祐(数学者),井筒昭男(元横綱),平松守彦(元知事),ジェームズ三木(脚本家),渡辺美智雄(政治家)と城山氏の対談集.この中で数人は故人になっている.以前にも城山氏の本を読んだことがあるのだが,書いている内容ではなく文体があまり体質に合わなかった.本作でもその印象に変わりはなかったが,タイトルどおりに一回限りの人生を屈託無く生きている実力者たちのリアルな生き様にうまく支えられて最後まで読み終えた.まぁ,可も無く不可も無く.

[2004-07]
・「愛はさだめ、さだめは死」("WARM WORLDS AND OTHERWISE") ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア(James Tiptree, Jr.)/伊藤典夫,浅倉久志[訳](ハヤカワ文庫,ISBN4-15-010730-0, 1975)
 引き続きティプトリー.冒頭にはティプトリー男性説を強固に展開したロバート・シルヴァーバーグの序文,そしてアリス・B・シェルドン博士から届いた手紙(告白)によりティプトリーが女性であることを知らされたシルヴァーバーグによる追記.本作も12篇からなる短編集である.かなり荒削りで乱暴なプロットゆえに,好き嫌いがはっきり分かれるだろう.有名な「接続された女」("The Girl Who Was Plugged in")にしろ,邦題にもなった「愛はさだめ、さだめは死」("Love Is the Plan the Plan Is Death")にしろ,残酷な展開,残酷な結末に進むことが予見できる設定である.そして予想通りに話は進む.他の作品にしても奇妙に冷淡で心温まる予感がまったくしない.なんとしてでもロマンチックな複線や楽観的な視点や小さな救いのおこぼれを心の隅に期待してしまう読者の期待を呆気なく無視して,アップテンポにスキップしたまま各短編は結末を迎える.'70年代のSF界の主流からみて異端だったのか,それとも流行だったのかは調べてみないと分からないが,圧倒的な支持を集めたとは考えにくい.だがしかし,実は「星ぼしの荒野から」よりも悲劇的な終わり方の多い本作の方が面白かった.

[2004-06]
・「星ぼしの荒野から」("OUT OF THE EVERYWHERE and Other Extraordinary Visions") ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア(James Tiptree, Jr.)/伊藤典夫,浅倉久志[訳](ハヤカワ文庫,ISBN4-15-011267-3, 1981)
 長いこと謎の作家とされ,一切の個人情報が公開されなかったティプトリーの短編集.ネビュラ賞受賞作「ラセンウジバエ解決法」を含みます.かなり(例え悲惨で絶望的な状況であろうとも)ポップでアップテンポな話の展開をする作品が多い.最後の最後に”うちゅうじん”に騙されて終わる「天国の門」,「ラセンウジバエ解決法」は代表的だが,それ以外の作品も最後の最後で”なんてこったい”で終わる話が多い.いわゆるオチですし,内心そうオチるだろうと予想しているし,見事な落しっぷりなのがティプトリーのティプトリーらしさ,とのこと.表題作の「星ぼしの荒野から」も倫理的な問題点を含みつつも何故か感動的に話は終わる.表紙には,たまいまさこ画のアニメチックな絵が描かれている.この絵ゆえに購入するか敬遠するか意見が分かれるところだが,実は表紙の絵がどの作品を表しているのか分からない...騙されたような気がする.さて,ジェームズという男性名にも関わらず,多くの作品がフェミニズムな視点(女性の社会上・政治上・法律上の権利の拡張を主張する説:広辞苑より)で書かれている.「男性には書けるはずがない,作者は女性だ」,「いやいや男性でも書ける」といった議論が続いた末に,ティプトリーがアリス・シェルドン博士という正真正銘女性であったことが後々判明した.しかしそれよりも大きな衝撃を世界中の読者に与えたのは,彼女が自ら命を断ったという衝撃のニュースです.そのような背景を知った上でティプトリーの作品を読むと,受ける印象は,かなり変わります.言わない方が良かったでしょうか?
 ちなみにフェミニズム的な視点というのは「乙女チックな文体/展開」という意味ではありません.単に主人公が女性であれば良いということならば,高千穂遥(「ダーティペア」)にしろ,そこらじゅうでモェーモェーと萌えまくっている(←私には認識不能)マンガやアニメもフェミニズムになってしまいます.カワイイ娘がカッコウ良く活躍して,ちょっとドジッて云々(うう,これ以上は書けない)は,男性の側からみた「これってカワイイ」とか「ほら女の子を大事に描いてあげてるよ(=感謝しろよ)」という一方的な美化や価値観の押し付けに過ぎないですね.女性を主人公やキーパースンに置いた際に,その内面の葛藤や喜びや絶望を男女の性差に踏み込んで表現できるかという点ではないでしょうか.「男と女の間には深くて暗い河がある」(” 黒の舟歌”,野坂昭如)と言って切り捨ててしまうのは単純過ぎますし,発展が無さ過ぎますね.まぁ皆さんも色々と考えてみて下さい.

[2004-05]
・「イルカの島」("DOLPHIN ISLAND") アーサー・C・クラーク(Arthur C. Clarke)/小野田和子[訳] (東京創元社,ISBN4-488-61103-6,1963)
 巨匠クラークの有名なジュブナイル小説(juvenile:少年少女向け).アップテンポな中篇小説である.ちょっと不幸な少年がひょんなことから広い世界に飛び出して大冒険を繰り広げて成長するというストーリー.本作ではイルカとヒトとのコミュニケーションがメインテーマとして展開します.似たような設定の話としてはロベール・メルル原作の映画「イルカの日」(1974)が有名ですが,「イルカの日」ではイルカを兵器(磁石付きの時限爆弾を運ばせる)として悪用する政治の力との戦いを描いた作品で,「飛べ,バージル,プロジェクトX」(1987)に近いですね.クラークのジュブナイルなのでそのような軍事転用ではなく,「海底牧場」(1957)に近いらしいのですが,実は私,読んだことがありません.
 全然,ストーリーは関係ないのですが,映画「グラン・ブルー」(1988)のモデルになった故ジャック・マイヨール氏のイメージが頭に浮かんで離れません.小説「イルカと,海へ還る日」の影響でしょう.どちらも素晴らしい作品ですのでお勧めです.でも,私は海が嫌いなので一生海には潜らないし,わんぱくフリッパーの友達にもなれません.

[2004-04]
・「ひまわりの祝祭」 藤原伊織 (講談社,ISBN4-06-264898-9, 2000/6/15)
 2003年最後に読んだ「テロリストのパラソル」の藤原氏の2作目.ほぼ2年掛けてジックリと書かれた本作は,個人的な満足度から言って確実に「テロリストのパラソル」の上を行っている.前作も充分に満足できる作品だったが,本作は更に画家ファン・ゴッホ(国内では,ゴッホ,ゴッホと咳のごとく呼ばれているが,正しくは,ダ・ヴィンチがヴィンチではないのと同様にファン・ゴッホが正しいらしい)に関わるミステリーを軸として,相変わらずクセのあるキャラクター陣を配置してリアルかつ独特の世界を構築している.ファン・ゴッホを主題に置いているが,ストーリーは銀座の裏通りから始まって京都で幕を閉じる.前作では,確たる裏づけはないのになんとなく切れ者のアル中バーテンダーが主人公だったが,本作品では個人主義を突き抜けた無関心主義者だが優れた芸術センスを持つ世捨て人が主人公(秋山)である分,説得力がある.主人公の思考の理解は難しく,慎重を要する辺りが魅力的である.銀座の街は,20代の頃に嫁さんと一緒に映画館のはしごをして夜遅くまで歩き回った馴染みのエリアで,色々と思い出がある.前作もそうだが,本作も読みながら不思議な既視感に包まれる.知っている店が出ている訳ではないが同色の空気の色が目の裏に感じられる.ムズムズとした感覚であり,これがノスタルジアで,歳をとることなのだろうか? 知性とバイオレンスとエキセントリックのバランスが自分の嗜好と一致しているせいだろうか,それとも筆致の巧みさに誰もが同じような感覚を受けるのか興味がある.まったくもってハッピーエンドではないが,読後感はイヤではない.秋山という主人公はそんな奴である.

[2004-03]
・「シュナの旅」 宮崎 駿 (徳間書店,ISBN4-19-669510-8,1983/6/15)
 著者に関して説明は不要でしょう.チベットの民話「犬になった王子」(君島久子 訳,岩波書店)をベースとしたオールカラーの絵物語(文庫サイズ)です.初版が’83年ですから,20年以上前の作品になります.「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」などに本作品の影響が強く現れているのは,読んでみればすぐに分かるでしょう.私は10代の頃に友人から薦められて読んだことがありました.先日,鈴鹿市に全国チェーンの新古書店がオープンした際に,非常に綺麗な状態のものがあったので購入しました.綺麗なわけです,2002年(48刷)のものです.大きく取り上げられることはありませんが,確実に読み続けられているようです.久しぶりに読んでみると,随分と記憶と違う部分があります.ちなみに「もののけ姫」にも宮崎 駿の原作があるのをご存知でしょうか.こちらはムック(確か「宮崎 駿のイラストボード」というタイトルだったかな?)に含まれているので,単独で探すのは困難でしょう.手放してしまった後に映画化が決まり,いまから思えば勿体無いことをしまいました.

[2004-02]
・「科学という考え方」 田中三彦 (晶文社,ISBN4-7949-6080-8,1992/6/25)
 著者は1943年生まれ,’77年まで原子力発電所の設計に従事していたエンジニアで,科学や科学思想に関わる翻訳や執筆を続けているサイエンスライター.本書はJR東日本が出版している月刊誌「トランヴェール」に約3年間にわたって連載された「中間人の科学」というエッセイに加筆・修正したものだそうです.科学的な素養のあるヒトが,社会や自然のメカニズムの中に隠された真実や法則などを科学的視点で解説するタイプの本です.著者の田中氏が本書に敢えて「科学という考え方」というタイトルをつけたのは,科学的な知識や視点を身につけることで,日常生活における思考方法の枠を広げることができることを伝えたかったそうです.
ところで,先に紹介したS.J.グールドも,故アイザック・アシモフも優れた科学エッセイを書いています.とても面白いし刺激的な話が多いので,(特にアシモフ氏のエッセイ集は)是非とも一読することをお勧めします.さて,グールド氏のエッセイもアシモフ氏のエッセイも,膨大な情報量や圧倒される論理の展開で読者を驚かせますが,レベルを落として読者に歩み寄ろうとすることはなく,グイグイと強引に自分の世界に引きずり込もうとします.そういう強引さが本書のエッセイには無いせいでしょうか,突っ込みが浅くて消化不良です.宇宙,恐竜絶滅,ガイア仮説,地球温暖化,バイオスフィア2,ストーンヘンジ,超能力,脳,台風,色々な話題を科学的に解説しますが,「ふーん」あるいは「へー」という程度の驚きしか無いし,そこから飛び抜けた議論に跳躍する訳でもありません.ただ,科学史に関する造詣がある方のようですので,様々な学説がどのような背景に基づいて生まれたのかを知ることができる資料としての価値はあります.ところで本書の最後の二つのエッセイは比較的興味を持って読むことができました.「もっともバランスのとれた長方形とは?」(ボーデの仮説と黄金比の話)と「長さの決まらない海岸線」(フラクタルの話).どちらもそれほど内容は深入りしたものではありませんが,数列,数式,幾何学的図形を用いて話題を進めてくれるので,とても分かりやすいし,読み終えた後に頭の中で話を発展させて妄想できる(しない?).この2つのエッセイ以外では意図的に数式を用いるのを避けていたのだろうと思います.それが逆に我々(理系人間)が,問題の面白さの本質をダイレクトに把握できずにイライラさせられ,消化不良に陥った一番の理由でしょう.
 先日,住宅ローン(借金ですね)の解説書を古書店で買ってきて数冊読んだのですが,まったく面白くありません.分かりきったようなことを結論は先伸ばししながらズルズルと文字を連ねていくだけで情報量が極めて少ない.嫁さんに「これらの本はどうして数式を載せないのだろう? 面白くないし,説得力もない」とボヤいたところ,理系の人間だからそう思うのだと指摘されました.でも,私は数学が特別に得意な訳ではありません.文系の人はこれらの本を読んで何を判断するのでしょうか.それでも我慢しながら「自己資金を増やして金融機関から借りる額を減らした方が得」(そりゃそうだろう)といった話を1ページ,2ページ...と読み続けると,もう我慢できなくなって速読のようにパラパラパラとページを捲って数式のあるページを探してしまいます.だって,数式さえ書いてあれば,Excelなどの表計算ソフトを使って誰でも直ぐに,本に載っている例と同じようなグラフをシミュレーションできる訳です.条件を様々に変えて,本に載っていない条件も試すことができるじゃないですか.35年ローンのコンピュータシミュレーション,かなり燃えました.

[2004-01]
・「カリフォルニアの炎」("CALIFORNIA FIRE AND LIFE") ドン・ウィンズロウ(Don Winslow)/東江一紀[訳] (角川文庫,ISBN4-04-282303-3,1999)
 本作はカリフォルニアの炎と命の物語である.主人公のジャック・ウェイドは”カリフォルニア火災生命”(保険会社ですね)の火災査定人.被保険者が火災で被害を受けた際に支払う保険金を査定するのが仕事である.土建屋の父の下,少年の頃から家を建てる技能と知識を身に付けて育ってきた.大学に進学したが中退してオレンジ郡保安局に就職し,そこで消防学校に入学する.家を建てる知識があれば壊す方の覚えも速いだろう,これが大正解で,ジャックは優秀な火災調査部の職員として活躍する.しかし義憤から不正を働き,免職されてカリフォルニア火災生命に拾われる.挫折を味わいながらも,仕事とサーフィンとデーナストランド(strand: 岸,浜)を愛す孤独な男(うっ).作者のウィンズロウは全米各地やロンドン,アムステルダムで探偵として働いた経歴を持つ.火災保険の仕組みや詐欺の手口など,精緻な知識はこの経歴により得られた生の知識らしく,きわめてリアル.
 正直に白状すると,クールでハードボイルドな語り口に,かなり目眩を感じて批判的な感想を持っていました.「思わせぶりに匂わさずにスパッと言え,スパッと」.しかし全体の2/3あたりで大どんでん返しが待ち構えています.読者だけではなくクールなジャックも泡を吹く.これでチャラ.残りは一気に突き進みます.あまりに悪党の網が広く広がりすぎているので,どうやって収拾つけるのか不安だったのですが,これは不安が的中したとバラしましょう.まぁ仕方ないですね.大抵の場合は「なんだかな〜! だから言わんこっちゃない」とブスブスと不完全燃焼するのですが,本作の場合は見事に泡を吹かされた以上,都合よく鎮火しても素直に諦めます.何を言っているか分からない? 読んでみて下さい.後悔しませんよ.

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