(2005年)

[2005-1]
・「ゴールデン・フリース」 (Golden Fleece)  ロバート・J・ソウヤー(Robert J. Sawyer)・(ハヤカワ文庫/SF ソ11),ISBN 4-15-010991-5, 1990)
 
ロバート・J・ソウヤー(イリーガル・エイリアン」参照)の処女作にして,ローカス賞処女長編部門第4位,オーロラ賞長編部門,ホーマー賞処女長編部門を受賞.ゴールデン・フリースとは,ギリシャ神話に出てくるコルキスの地で巨龍に守られている”金の羊毛”のこと.イオルコスの王アイソンは異父弟ペリアスに王位を追われた.20年後,成長したアイソンの息子イアソンを疎ましく思ったペリアスは,コルキスの国の宝である”金の羊毛”を奪い取ってきたら王位を譲ると約束する.この約束は,かぐや姫が求婚者に無理難題を出して諦めさせようとしたのに比べるとかなり血生臭い.イアソンは船大工アルゴスに作らせたアルゴ船に,ギリシャ中から集めたヘラクレスを含む50名の勇者と共に乗り込んでコルキスを目指す.このストーリーは王女メディアの絡む愛憎の物語になるらしいが,本作では王女メディアに関する設定は使われない.
 地球から47光年離れたエータ・ケフェイ星系第四惑星(通称コルキス)を目指すスターコロジー(宇宙旅行都市:バサード・ラムジェットで航行する一万三十四名の乗務員が生活できる巨大宇宙船)アルゴ上で発生した殺人事件から物語が始まる.片道8年,往復16年.ただし0.92Gで加速続けるアルゴは光速の99%まで達する.したがって相対論的な効果により,地球に帰ってきたときには100年近い年月が過ぎていることになる.ん? 100年程度.SFとして中途半端な設定だな.ポール・アンダースンの「タウ・ゼロ」では”いまの宇宙が終わって次の宇宙が始まるまで”飛び続けたぞ.「タウ・ゼロ」は極端な例としても,往復100年程度の犠牲は苦難の旅と言えるのか,かなり微妙な線であり,これは実は重要な伏線の一つ.(ちなみに相対論的な時間の伸び縮み=ウラシマ効果,を積極的に用いた作品として星野之宣のマンガ「2001夜物語」中の「愛に時間を」が素晴らしい.哀しいが美しい話です)
 アルゴを管理するのは第10世代コンピュータであるイアソン.「2001年宇宙の旅」のHAL9000に相当するが,HALはチャンドラー博士ら人間が設計・製作したのに対して,イアソンはコンピュータによって設計・製作されている.ノロくて不正確で傲慢な人類に仕え,乗務員には献身的にサービスし,人類の生命を守ることを頑固に貫こうとする,なかなか健気な人工知能である.ところで先に述べた殺人事件,犯人はイアソンである.これは初っ端からイアソンによる一人称で語られているのでネタバレではない.ここがもう一つの面白いところ.
 あとがきに,ともかく誰かに(特にSF作品を読まない友人に)「ほら,何も言わずにこれを読めよ」と薦めたくなる魅力があると書かれている.実は以前に一度読んでいる.「題名を見た記憶がない」と嫁さんには言い張ったのだが読み直すと徐々に思い出してきた.初めて読んだ時はそれほど面白くなかったような反応を示したらしいが,今回は十分に楽しませて貰った.ソウヤーのその後の作品にも共通する特徴なのだが,十分に計算され,入念に調査・準備され,細部まで描き込まれた少しオタクチックな文体でありながら,意表を付く力強さもクスッと笑わせるユーモアも備えている.
 ちなみに作中に出てくるアレシボ恒星間メッセージ(1679ビットのデジタルデータ),これは実際に地球外知的生命体に向けて発信されたデータだそうです.調べてみると,どのようなデータであったか分かります(下記リンク参照).ちなみに画像のデータなのですが,(いまは亡き)セーガン博士,これ地球人でも何を意味しているのか理解するのは,断言しましょう,無理です.

(参考リンク)
  "宇宙授業" : 宇宙のポータルサイト ユニバース
  http://www.universe-t.com/vol4/chapter09/
  "S.ET.I" : 大分大学教育学部情報社会文化課程情報教育コース 多田有佳里・藤島春美
  http://kitchom.ed.oita-u.ac.jp/~astro/SETI/project/aresibo.html

[2005-2]
・「コンピュータが子供たちをダメにする」 (High-Tech Heretic)  クリフォード・ストール(Clifford Stoll)・(草思社,ISBN 4-7942-1096-5, 2001)
 自分の管理するコンピュータシステムに侵入していたハッカーを追い詰めたことで世界的に有名になってしまった天文学者ストール博士.ノンフィクション「カッコーはコンピュータに卵を産む」,インターネット万能論の台頭に警鐘を鳴らした「インターネットはからっぽの洞窟」に続いて登場した本作.主に教育現場に鳴り物入りで導入され始めたコンピュータ支援による教育に対し,「ちょっと待ってよ,これは見逃せられないよ」と,またまた1冊費やしています.ところで本作品,邦題がひどい.原題は"HIGH-TECH HERETIC: Why Computers Don't Belong in the Classroom and Other Reflections by a Computer Contrarian"です.Hereticは異論を唱える人,異教徒.Contrarianは,人とは反対の行動を取る人.ここでのReflectionsは感想,意見,考え.この邦題ではあまりにもありきたりすぎて,本書が「あのストール氏の著書」とは気付きませんよ.
 ポイントは,旧来の教育や図書館のシステムをコンピュータに代行させる試みが(誰の差し金かは別として)徐々に加熱してきているが,コンピュータなんて5年程度経過すれば時代遅れになるし,現在のCD−ROMのマルチメディア教材もそう遠くない未来に再生不能の粗大ゴミになるだろう.貴重なお金を5〜10年後の粗大ゴミのために使うよりも,もっと有効なことに使うべきではないのか.こと教育に関して言えば,「デキの悪い教師に取って代わるのはコンピュータではなく,優秀な教師であるべき」だし,「勉強とは本来,楽しいものではない」などなど.ごくごく普通のことを言っているはずなのに,常に半年から1年先くらい先に到来するかのごとく喧伝される電脳桃源郷に慣れすぎていると,つい忘れてしまっている感覚である.
 なるほど,確かにコンピュータの高性能化・多機能化が仕事の効率を上げて,僕らの生活を豊かにしてくれているのか疑問に思う事態に,本日遭遇した.私の仕事を効率化させてくれるはずの大容量HDDを搭載したPCの調子が悪くなり,今日の午前中は仕事にならなかった.しかもそれがデータの安全性を高めるための技術であるRAID絡みだったから皮肉である.それでも更なる業務の効率化を目指して工夫を重ね,気が付くとWindowsXPのシステムトレイは,

こんな状態になる.便利そうだからと100円ショップで不要な物まで買い込んだ後の後悔に,少し似ているかな?

[2005-3]
・「幻惑の死と使途」 (ILLUSION ACTS LIKE MAGIC)  森 博嗣・(講談社文庫,ISBN 4-06-273011-X, 2000)
 本作と次の「夏のレプリカ」は時間経過が並行しているため,本作は奇数章,「夏のレプリカ」は偶数章しかないという仕掛けはあまり意味が無い.こちらは西之園萌絵が中心になって謎解きに相変わらず頑張る.オチが強引なので「わかるかい!」と突っ込みを入れたくなる本作だが,次の「夏のレプリカ」が優れているので大人しくここで止めておきます.

[2005-4]
・「夏のレプリカ」 (REPLACEABLE SUMMER)  森 博嗣・(講談社文庫,ISBN 4-06-273012-X, 2000)
 「詩的私的ジャック 」のあたりで”ラブコメ路線が強まった”と書いたが,本作あたりで安定したようでに感じる.ヒトによってこういう状態を”キャラが立つ”と言う様である.立ったか座ったかというよりも,こと西之園萌絵と犀川(呼び捨て)の関係に関しては,こういう流れにはならないだろうと思っていた方向にどんどん進むので戸惑っていたのだが,読んでいる私がその状況に慣れたに過ぎないようである.本シリーズを全部読み終えてから1作目を読み直すと,きっと「ラブコメ度合いが低い」と感じるのだろうか.
 本作限りになってしまうのかも知れないが西之園萌絵の高校時代からの親友・簑沢杜萌(みのさわ ともえ)が本作の主人公である.魅力的かつ明晰で,バランスを取るかのように精神的に危うい面を持つ.西之園萌絵を取り巻く登場人物の性格の作り込み(犀川も所詮は構成メンバの一人,か)は本当にうまい.この作品が今までに読んだ中で(数学パズルが無いにも関わらず^^)最も面白かったのは,文庫版のあとがきで作詞家の森 浩美氏も言っているように,一人ぼけツッコミ的なミスリードに見事に私も乗せられた点にある.トリック自体の難易はそもそもあまり問題にしていない.「犯人はお前だっ」と決め付けた直後,作中人物に「ミステリィの読み過ぎだよ」と一蹴されるのは新鮮だった.
 「まどろみ消去」が”同人”的な匂いを臆面も無く発散していたのに対して,この作品では青臭い青年期(...一応ありました)の未完成さを効果的な味付けに用いている.この手の香りに若いオジサンたちはきっと弱いと思う.いま青春真っ盛りの若者たちがその香りを感じ取っているのか,それをどう処理するのか,少し興味がある.まぁ頑張ってください.


[2005-5]
・「デスゲーム 24/7」 (24/7)  ジム・ブラウン/田中昌太郎[訳]・(ハヤカワ文庫SF,ISBN 4-15-041006-2, 2001)
 カリブ海の孤島を舞台に12人の男女の生活を600台のカメラでテレビとインターネットで中継するリアリティ・ショウ.幸運な参加者の中の最高にラッキーな最後の1名は200万ドルの現金と一つの願いを叶えて貰うことができる.7週間かけて行われる通常のTV番組のはずが...大枠の設定であるリアリティ・ショウ自体は「サバイバー」,「ビック・ブラザー」といった米国で放映されている人気番組を借りている.映画ではジム・キャリー主演の「トゥルーマン・ショー」が有名.本のタイトルでもある「24/7」はこのリアリティ・ショウの番組名.24時間,週7日,つまり休むことなく全ての行動が観察されているぞ,という意味.この番組が謎の人物(組織?)に乗っ取られる.参加者は(設定に無理があるだろうと言いたくなるほど)感染力の高い殺人ウィルスで汚染されているため,軍隊も医者も科学者も近付けない.毎日1回,ワクチンを注射することで1日だけ命が延びる.毎日行われる投票の結果,もっとも視聴者から多い票を得た参加者は(島を去る代わりに)ワクチンを”貰えない”=死.生殺与奪の権が参加者側にあるならば「バトル・ロワイアル」のように殺し合いになるのに対して,インターネットで一般市民により投票される訳だから参加者はどうしたら良いのか困ってしまう.パニックに陥る,島から抜け出す,自暴自棄になる,そしてもう一つが”セイフティ・ストーンを探す”.島の中に隠されたこの小さな玉が1つあれば,自分の得票の10%を差し引くことができる.などなど.面白い設定だし,登場人物もほどほどに個性的なのだが,意味不明な伏線が多く,そもそも思い付いた設定を死なせないために,強引な制約条件を無理矢理とって付けている感が強くて素人っぽい.それも当然,作者のジム・ブラウンはTVを中心に活躍してきたジャーナリストで,本作がデビュー作.


[2005-6]
・「数奇にして模型」 (NUMERICAL MODELS)  森 博嗣・(講談社文庫,ISBN 4-06-273194-0, 2001)
 相変わらずの犀川・西之園シリーズ.今までの違いは犀川が積極的に事件に関わることになった点と,脇役のヒトビトがいままで以上に細かく表現されている点.随所に森博嗣的こだわりが強く現れている.特に文章の読解力に関わるネタが多いのは,理系研究者(教育者)が常に学生に対して感じている不満をよく表している(笑).「夏のレプリカ」とは別の意味での男女関係にまつわる伏線が多く,お嬢様の西之園,朴念仁気取りの犀川の反応がそれなりに面白い.さて,「アシカとオットセイの違いは,いくら?」
 昨晩,三重大学で行われた講演会に参加してきました.講師は東京工業大学名誉教授で高専ロボコンの発案者でもある森 政弘先生とASIMOの中心的開発者である本田技術研究所の竹中 透氏.ちなみに森先生は三重県,竹中氏は愛知県出身,竹中氏は森先生の研究室出身です.森先生の門下生の中では(顔つきも含めて)最も森先生に似た学生だったそうです.さて,竹中氏の話は,それまでの常識をいくつも破ることでホンダのヒューマノイドロボットが実現できたことを学術的にも説得力のある形で説明して頂けて,とても参考になりました.森先生の話は「創造性発揮の心構え」という題目で,いかにして独創的かつ創造的な発想を得るのか,精神論だけではなく沢山の実例を用いて説明して頂きました.講演会の後は関係者のみの懇親会を行い,その席でも森先生のお話を直に聞くことができました.特に森先生の話の中で本作と関わりのあるのは”念”・”忘”・”解”という話と”計名字相”.どちらも,現在抱えている問題を解決するブレークスルーを発見するための方法論です.前者は,ブレークスルーを得るまでの過程を表した言葉.まず24時間絶え間なく現在の問題を考え続け,考え続け,何を目にしてもそれが現在抱えている問題のヒントになるのではないかと妄想するまで考え続ける.風船がはち切れんばかりに頭が飽和したところで,フッとその問題のことを忘れた瞬間(森先生は風呂に入っている時.私は通勤のための車の運転中が多い)に解が得られる.知識や知恵を詰め込んだ後に全て一旦忘れることの重要性を意味します.専心していると対象を常識的な一面からの狭い視野で捉えがちだが,それを別の側面からひっくり返して眺めるためには一旦,目線を逸らす必要があります.後者の”計名字相”は正確な意味を調べていませんが,仏教用語らしいです.何事にも名前を付けたがることを意味し,名前によって与えられた属性に支配されてしまう状態のような意味でしょうか.たとえば「ここにはバネが必要だ」という問題があった時に,コイルスプリングをああでもないこうでもないととっかえひっかえ試行錯誤してしまう.バネという名前を付けてしまったために他の選択肢を思い付かなくなる.本質は「力を受けるとその大きさに応じて変形する機構が必要」なのだとすると,輪ゴムでも良いのかも知れないし,他のプラスチックなどの弾性体でも良いし,その形状や仕掛けの選択肢も大きく増えるだろうということです.これは問題の定式化・モデル化に通じる考え方でもあります.専門科目の試験問題を解く鍵は与えられた具体的な問題をモデル化し,そして数式化するプロセスを習得しているかどうかに掛かっています.一見複雑で特異そうに見える現象も数式化して見ると既知の別の問題と同じ現象であることが分かったりします(たとえば過渡現象).
 解説は,学生時代の森博嗣の同人活動を知る米沢氏によるものです.「すべてがFになる」文庫版の瀬名秀明氏のあとがき以来,やっとまともに読める解説に出会えました.

[2005-7]
・「あなたの人生の物語」 (Stories of Your Life and Others)  テッド・チャン(Ted Chang)/浅倉久志[訳]・(ハヤカワ文庫,ISBN 4-15-011458-7, 2002)
 「科学」:”世界と現象の一部を対象領域とする、経験的に論証できる系統的な合理的認識。研究の対象あるいは方法によって種々に分類される(自然科学と社会科学、自然科学と精神科学、自然科学と文化科学など)。通常は哲学とは区別されるが、哲学も科学と同様な確実性をもつべきだという考えから、科学的哲学とか、哲学的科学とかいう用法もある。狭義では自然科学と同義。”(広辞苑より).
 ヒューゴー賞,ネビュラ賞,ローカス賞受賞作を含む八編からなる短編集.1990年のデビューから12年間に,本書に収められた(しかもそのうち1編は書き下ろし)短編しか書いていない非常に寡作な作家.本職はテクニカルライター.大学では物理学とコンピュータサイエンスを専攻し,科学者への道を目指していたという.ハードSFに出てくる科学者が,どちらかといえばエンジニアとしての色が濃いのに対して,本作に出てくる登場人物たちはサイエンティストである.一編一編がユニークであり,単なる技術や倫理とは異なる,本当の意味での科学を真面目に扱った作品が多い.
 たとえば”ゼロで割る”.x/0 = 無限大,ではありません(恥ずかしながら,私は1年ほど前まで間違えていました).これは計算できないことが数学的に証明されています.ゼロで割ってはいけないのです.Divide by zeroはランタイムエラーになりますよね.いけない,と言われても,往々にして計算結果がそのようになってしまうこともあります.逆行列が得られない(つまり行列が正則ではない)場合もしかり.ゼロで割ってはいけない,この常識をベースにして小説を...書いてしまうのがテッド・チャンなのです.(実際には,ゼロで割る,が問題ではなく,営々と築き上げられてきた数学の基盤を破壊する定理を証明してしまった優秀な女性数学者が学術的に真剣に悩む様を描いた作品です)
 さて,”七十二文字”という作品の中で扱われている”ヒトの精子の中には更に小さなヒトが収まっている.その小さなヒトの精子の中にはさらに小さなヒトが収まっていて,そのヒトの精子の中にも...”という概念ですが,これは1744年にドイツの生物学者アルブレヒト・フォン・ハラーが唱えた展開説(あるいは前成説, Evolution)です(アイディアに独創性が無いと言いたいのではありません.奇想天外な学説をうまく料理していることを褒め称えているのです).これについてはスティーヴン・ジェイ・グールドの「ダーヴィン以来」に書かれていますので興味がある方はそちらをお読み下さい.一部抜粋します.
ハラーの唱えたエヴォリューションの概念は,”胚は卵子または精子のどちらかに封じ込まれている前もって形成された「小さな人間(ホムンクルス)」が大きくなっただけのものなのだという説”です.つまりあらかじめイヴの卵巣あるいはアダムの睾丸の中に後世に産まれる全ての人類の素が”入れ子状”に封じ込まれていたということになります.もっとも,当時この説が露骨な嘲笑の的にならずに前成論者グループを形成できたのには根拠があります.確かに顕微鏡を用いてヒトの胚が姿を変えつつ成長していく過程は観察されていました.しかし,人類が神によって作られてから”たかだか数千年”だと考えられていたこと,物体の大きさに下限があるかどうかについて説得力のある理論が出されていないどころか光の粒子説をもってしてダニよりもっともっと小さな物体の存在の可能性を示されていたこと,が挙げられます.ヒトの体を構成する全ての細胞の設計図が小さな細胞(精子/卵子)に収まっていて,それが忠実かつ完全に発現して人体を構成するという説の方がよっぽど荒唐無稽,まさにSFですよね(笑).ビル・ゲイツがMS-DOSを開発した際の発言,”プログラム用のメモリ領域が640KBもあればどんなプログラムだって十分に収まる”(正確ではありません),あるいは誰かが言った”将来は一つの巨大なコンピュータで全ての仕事は処理できる”(これは的中するかも?)を思い出せば,なんとなく納得してしまった18世紀(から19世紀)の科学者を責めることはできません.

[2005-8]
・「タフの方舟」 (TUF VOYAGING)  ジョージョ・R・R・マーティン(George R. R. Martin)/酒井 昭伸[訳]・(ハヤカワ文庫,ISBN 4-15-011511-7/8, 1986)
 ”禍つ星(まがつぼし)”と”天の果実”の2冊,計八編の短編からなるシリーズ(ただし,ストーリーに一貫性があるので2冊組の長編と考えるのが妥当).”「ジュラシック・パーク」の興奮と「ハイペリオン」の愉悦がここにある”,”イーガン,チャンがわからなくても,この本の面白さはわかります”といった帯の煽り文句からどのような作品か予想できるか...タフ,というのは主人公の名前で,正確にはハヴィランド・タフ.無毛で太った人間嫌いでネコ好きな宇宙商人.かなりエキセントリックかつストイックな性分であり,(同じく帯に謳われている)”宇宙一あこぎな商人”というのは全くのウソで商売はパッとしない.ひょんなことから1000年以上前に失われた旧連邦帝国が戦争用に開発したEEC(連邦帝国環境工学兵団)の胚種船を手に入れる.これが”方舟”.数多の惑星から集められた生物ライブラリ(遺伝情報)を満載し,既知のあるいは未知の生物や病原体を自由に創造できる.この兵器を手にすることは神の力を手に入れるのに近い(等しいとは言わない).1980年代に発表された短編を繋ぎ合わせた本作品,このような怪作が2005年まで邦訳されなかったとは! 正統派SFファンは必ず満足します.ネコ好きの方も満足(ちょっと哀しい展開もありますが)でしょう.ただ,ベテランの翻訳者・酒井氏による暴走した解説がケチをつけてしまっているように感じられますが,まぁ,それくらいにヒトビトを熱狂させる面白さに満ちた作品ですので,本屋さんで見付けたら迷わず買うべきです.

[2005-9]
・「今はもうない」 (SWITCH BACK)  森 博嗣(講談社文庫,ISBN 4-06-273097-9, 2001)
 読む順番を間違えたようです.これも何かの縁でしょう(意味深長).「数奇にして模型」より前に刊行された作品でした.読む順番は今回に関して,あまり重要ではなかったので幸いでした.今回は(も?)謎解きはあまり重要ではなく,人物描写の面白さが特に巧みでした.笹木という中年男性の視点でストーリーの大半が語られます.この人物が何者か,語られている事件がどのような重要性を持つのか,については,実験作品的なトライが成されています.正直に巧みだなぁと言って構わないですよね?


[2005-10]
・「気まずい二人」  三谷幸喜(角川文庫,ISBN 4-04-352901-5, 2000)
 脚本家・三谷幸喜.1983年,日大芸術学部在学時,東京サンシャインボーイズを結成.劇団活動と並行して放送作家としても活動し,徐々に知名度を上げる.シチュエーションコメディ「やっぱり猫が好き」の脚本の一部を担当.この作品に出演していた小林聡美(某製パンメーカのCMに出演中.松たか子じゃないぞ)と結婚.TVシリーズ「古畑任三郎」(見たことありません)など.彼はあまりTVに露出したがらないことでも有名ですが,作品の宣伝のために,いやいやながらTV出演する姿を見たことのあるかたはご存知でしょう,ちょっと変なヒトです(勿論,劇作家に普通のヒトがどれくらいいるのか私は知りません).手掛ける作品はコメディ作品,さぞかし話題が豊富で丁々発止な会話上手な人物かと期待されるほどアガってしまって硬直してしまう.そんな三谷氏の対談集です.女性相手に二人で対談だなんて冗談じゃない,そんな三谷氏を話し上手に改造しようという企画.確かに,対談でゲストに呼ばれて参上したというのに,硬直するわ,目線は泳ぐわ,大豆の話しかできないわ,挙句の果てには気まずい沈黙が流れるわ,では,激怒してしまったゲストが存在するのも納得です...雑誌に連載されたものを本にまとめたそうですが,その過程で先方の事務所から収録を断られた方が2名(寿美花代と薬師丸ひろ子らしい)いるとも.
 内容は非常に軽い(なにせあまり喋らない.ゲストが心配してネタを振る有様)ので,1時間半ほどで読み終えました.タイトルはニール・サイモンの戯曲「おかしな二人」("The Odd Couple", ジャック・レモン,ウォルター・マッソー共演で映画化)のパクりでしょう.コメディの芝居は主にセリフの噛み合わなさ,細かなネタへのこだわり(執着とも言う),漫才でいえばボケ,ボケ,ツッコミ(ツッコミは少なく,ボケが多い),のテンポかな.以前,関東に居た頃に,いくつか知り合いの劇団の芝居を見に行った時に,そのように感じました.哀しいほどに,頭に超が付きそうなほど一生懸命な三谷氏を,あざとい奴とか小ずるい奴と思う方は,きっと私以外にも居るでしょう(笑).ナチュラルなのかな,どっちなのかな,結論を出せなかった
私ですが,この本を読んだら,余計にどちらだか分からなくなりました.まぁ,小林聡美に免じて許します.たぶん,悪い人じゃないのでしょう.

[2005-11]
・「人魚とビスケット」 (SEA-WYF AND BISCUIT) J.M.スコット(J. M. Scott)(創元推理文庫,ISBN 4-488-21102-X 1955)
 ”1951年3月7日から二ヶ月間,イギリスの大新聞に連続して掲載され,ロンドンじゅうの話題になった奇妙な個人広告”,に想を得て書かれたフィクション.原作は1955年の出版.幻の傑作が新訳で2001年に復活したそうです.掲載された個人広告は「人魚(SEA-WYF)へ.とうとう帰り着いた.連絡を待つ.ビスケットより」から始まる.引き続きビスケット氏より人魚へ向けた一連のメッセージが掲載される.何者が発したメッセージかは不明.ただ,J.M.スコットはこれらのメッセージを元にして,ビスケット,人魚,ブルドック,ナンバー4,の4名の冒険物語を創作した.1942年.第2次世界大戦の最中,日本軍の急襲で陥落しかけたシンガポールより撤収するパナマ船籍の商船サン・フェリックス号がインド洋の真ん中で日本軍の潜水艦の魚雷攻撃で撃沈される.そして”3名”が生還するまでの2ヶ月の物語.
 完全な創作ではなく,一連の個人広告をベースに,史実を交えて架空の物語をデッチ上げるという着想の面白さだけではなく,見ず知らずの4人の男女が身動き一つ取れないゴムボートの上で絶望と希望の狭間で疑心を抱きつつお互いに力を合わせながら波間を漂うというサバイバル小説として完成度の高さが傑作といわれる所以でしょう.”この手の作品”を語る際に薀蓄を語るには必須の作品かと思われます.多分.あまり長くない作品ですので,(時間さえあれば)きっと一気に読み終えることができるでしょう.ちなみにSEA-WYF(シーウイフと読み仮名)だが,辞書には載っていない.

[2005-12]
・「SONYの旋律(私の履歴書)」 大賀典雄・(日本経済新聞社,ISBN4-532-31050-4, 2003)
 いまはもう掲載されていないのかも知れませんが,日本経済新聞(いわゆる日経新聞)の1面
(補注)に各界の著名人が自身の半生を語る名物コラム”私の履歴書”というものがありました.広島大学大学院在籍時,所属していた研究室では日経新聞をとっていたので,毎日読むことができました.さて,本書はそのコラムに掲載されたソニー(株)第5代社長・大賀典雄氏の”履歴書”です.ソニー(株)は1946年に東京通信工業(初代社長は創業者の井深大氏の義父 前田多門)という名前で設立された.その後,取締役社長職は創業者の井深,盛田の両氏が継ぎ,岩間氏を経て,大賀氏が継ぐ.13年の社長在任後,1995年に出井氏にバトンタッチする.私が1993年から1997年までの4年間をソニー(株)で過ごしたのは,まさにこの大賀氏が勇退される時期だったわけです.ちなみに入社するまでソニー(株)の成り立ち等をほとんど私は知らず(:大いに反省している),社長の大賀氏が社内TVのスクリーンに大写しになったときの感想は「顔のデカイ社長だ」(失礼....).物理的に本当に立派なお顔をしていまして...1930年静岡生まれ.1953年に東京芸術大学音楽学部卒業後,東京通信工業に嘱託社員として入社.そのままドイツへ(当時としては珍しい)音楽留学.留学から戻ったあとも音楽家と嘱託社員の二足のワラジをはき続けるが,最終的にはソニー(株)の社員として働くことを優先.1964年に34歳の若さで取締役へ.SONYのコーポレートイメージ確立を強行に推し進め現在の”ハイセンスなソニー製品”の礎を築いたことで有名.ソフトとハードの両輪が重要であることを早期から主張し,CBSソニー設立を任される.コンパクトディスク(CD)の規格をオランダのフィリップス社とまとめあげ,ミニディスク(MD)の製品化を推し進めたことでも有名.事実,私が1993年にソニー(株)に入社した頃のソニー(株)は目玉商品に恵まれず大企業病に悩んでいた(未だに?).ウォークマン,ディスクマンともに他社との半年サイクルの新製品開発の体力勝負に持ち込まれ,家庭用ビデオ規格ベータマックスは(個人的には大好きだったが)シェアを失い,ワークステーション(Newsシリーズ),パーソナルコンピュータ(QualterLシリーズ)は失敗(Newsに関しては価値があったと思う)に終わって次のヒット商品を探していた.そこに出てきたのがMD,そしてその1年後のPlayStation,VAIO.社内外で賛否ある大賀評だとは思いますが,未来を予測して時代と共に成長してきたソニー(株)を体現する偉大なソニーマンの最後の一人であることは間違いない.丁度いま,実業ではなく虚業で財を成し,失速していく過程にある某LD社の○○えもんの著書を読むより,本学の学生には是非とも,こういうヒトの本を読んで欲しい.
 大賀氏の非凡な才能(音楽家でありエンジニアであり実業家)が裕福な家庭に生まれたという幸運に支えられているのは事実です.しかしその人脈やチャンスを逃すことなく掴み取り,能力を伸ばし,多くを発想し実現した行動力は誰にでも真似のできるものではありません.私もこんなことをツラツラ書いているのではなく,しっかり勉強し研究し仕事を仕上なくてはならないと,深く反省する次第です,はい.
(補注) 実際には1面の反対側(多くの新聞ではTV欄に相当する側)じゃないかとの妻の指摘.私はいつもTV欄→4コマ漫画→三面記事という順番に読む(日経新聞のTV欄は真ん中あたり)せいだろう,との分析.あの面は何と呼べばよいのでしょう.裏1面?

[2005-13]
・「フィーヴァードリーム(上/下)」 (FEVER DREAM) ジョージ・R・R・マーティン (George R. R. Martin) /増田まもる[訳](創元推理文庫,ISBN4-488-80045-9, 1982)
 「タフの方舟」の作者と同じ.簡単に言ってしまえば吸血鬼モノですが,これはかなりの傑作です.「タフの方舟」にしろ本作にしろ,この人は長編がベラボウに上手い.時代は1857年,アメリカ南部,ミシシッピ川周辺.蒸気船に人生を捧げたアブナー船長のもとに現れた謎の人物,ジョシュア・ヨーク.手持ちの船を事故で失い,打ちひしがれるアブナー船長に,最高の蒸気船を作らないかと,膨大な資金を提供し,共同経営を持ち掛ける.吸血鬼にまつわる様々な伝承のうち,明らかに無理な設定(十字架と聖水が苦手,鏡に映らない,ニンニクが嫌い,コウモリや狼に変身するなど)は否定,ただしヒトを襲い,その血を飲む,太陽の光を浴び続けると死んでしまう,驚異的な運動能力と人間を自由に操る能力を持ち,暗闇でも目が見えるといった特性をもつ人間とは違う長命種の生物として,科学技術の黎明期であり迷信の強く信じられていた19世紀後半のアメリカに再現する.蒸気船に関する膨大な情報を投入してリアルさを出すと共に前述した通りに”納得できる吸血鬼”像を構築することで読者を物語の世界に引きずり込む.吸血鬼の悲哀を描いた作品としては女流監督キャスリン・ビグロー(一時期,非常にホットでした)の監督デビュー作品「ニア・ダーク/月夜の出来事」(1987),トム・クルーズとブラッド・ピットが共演した映画「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」(1994)や萩尾望都の「ポーの一族」(古いなぁ...)などがあるが,これらは吸血鬼を単なるゾンビのような恐怖の対象としては描いていないが,基本的な設定は古典的な吸血鬼に属している.特に多くの吸血鬼作品は”噛まれたら吸血鬼になる”ことを重要なキーとして用いている.でもさぁ,それじゃ,世の中,吸血鬼だらけになっちゃうよ? 吸血鬼ではないけれども,ナスターシャ・キンスキーのスレンダーな肢体に目が釘付けになった「キャット・ピープル」(1981)も呪われた血族の耽美と悲哀さでは負けていない.ロバート・ロドリゲス監督の「フロム・ダスク・ティル・ドーン」(劇場で観ました.そのまま外来語とする思い切った邦題です)なんかは思いっきり吸血鬼を”道具扱い”していて,それはそれで小気味良いが,なんとなくバカになった気がして情けない.ちょっと亜流だが,隣に越してきた男が吸血鬼だと気付いたら,あなたならどうする?という現代設定の吸血鬼映画「フライト・ナイト」(1985)もちょっとカルトに有名.オーソドックスな吸血鬼伝説を描いた作品としてはS.キングの初期作品「呪われた町」(「死霊伝説」というクサい名前,まぁ原作本のタイトルも似たようなものだが,で映画化されたらしいが観たことはない)も重要か? 
 ヒトは家畜を食することに罪悪感を感じないように,吸血鬼は捕食対象である人間に対して憐れみを感じない.しかし(吸血鬼に比べれば)強い繁殖力と文明を手にした人類は吸血鬼を狩り,その数は激減してしまった.吸血鬼は絶滅しなくてはならないのだろうか.平和裏に共存する道は無いのだろうか? ネタバレになりますが,ジョシュア・ヨークは吸血鬼である.アブナー・マーシュ(醜い老船長)との間に友情に近い関係を築き,共に”悪い吸血鬼”(主観の問題)と対決する.さてさて,勝負は如何に.SFでは無いですし,怪奇小説でもありません.ジャンル分けの困難な作品ですが,文句なしの傑作ですので,是非とも読むべき作品です.ただ,ラストの展開は好き嫌いがあるでしょう.ハリウッド的なハイテンションのまま一気に大どんでん返しで大団円というシンプルさではありません.きちんと落とし前はつけますが,とてもじれったい.でも,このじれったさには非常に重要な意味があるのです.これは読んで貰わないと分からないでしょう.でも,きっと,「ジョージ,あんたは本当にバカ正直だよ」と賞賛できること請け合いです.この人は,一度こうと決めた設定には最後まで忠実です.

[2005-14]
・「サンドキングズ」 (SANDKINGS) ジョージ・R・R・マーティン (George R. R. Martin) /安田 均[訳](早川書房,ISBN4-15-011534-6, 1981)
 「タフの方舟」「フィーバードリーム」の作者と同じ.ヒューゴー賞/ネビュラ賞を受賞した作品を含む短中編集.正直に言いますと,ヒューゴー賞を受賞した表題作「サンドキングズ」以外は”おっ”と思う点が全く無い.これは好き好きかも知れないが,マーティンらしさを長編に見出している私だけの判断かも知れない.面白いことは面白いのだが,どうも頭に欠けて,尻尾も欠ける.それが短編の面白さだと言われてしまえばお終いである.

[2005-15]
・「フラッシュフォワード」 (FLASHFORWARD) ロバート・J・ソウヤー (Robert J. Sawyer) /内田昌之[訳](早川書房,ISBN4-15-011342-4, 1999)
 「ゴールデン・フリース」,「イリーガル・エイリアン」の作者と同じ.ここには書いてないが,「さよならダイノサウルス」や「ターミナル・エクスプリメント」などの”おかしな”作品が多い.本作は2009年4月から始まる近未来SFであり,日本人や企業,地名が頻出する点でも,妙に身近な舞台設定である.「フラッシュダンス」と言えば一世を風靡した,エイドリアン・ライン監督,ジェニファー・ヴィールス主演のダンス映画だが,本作とは全く関係ない.”フラッシュバック”と言えば,映画等で用いられる技法の一つで,過去の出来事を現在の流れに挿入して回顧するために用いられる.また別の使い方としては,麻薬中毒患者に生じる幻覚症状の再現であり,薬物の使用を止めた後でも突然,幻覚症状が発生するといった怖い後遺症のことを指す.またこれとは別に,近年,TV等でも取り上げられて広く認知されるようになったPTSD(Post Traumatic Stress Disorder(心的外傷後ストレス障害))の再体験(過去の恐ろしい記憶が突然襲い掛かってくるなどの症状)に対しても用いられるらしい.フラッシュフォワードとは,未来が当然,見えてしまう体験であり,おそらく本作での造語と思われる.そう,本作は,(誤解を意図的に生むように説明すると)”未来が見えちゃったけれど,どうしよう”というSFである.
 大抵の作家が描くタイムパラドックスと,ソウヤーの描くそれは大きな違いがある.物質の”質量の謎”を解き明かすための加速器(大型ハドロン衝突加速器)を用いた実験がCERN(ヨーロッパ素粒子研究所.HTMLを用いたWebの発明で有名)で行なわれた.その際に研究所のメンバーが2分間,意識を失った.その間,多くの者は21年後の自分の未来を(未来の自分の視覚を通して)見てしまう.すごい,ことが起こったぞ.ところがこの現象,CERNのメンバーだけではなく,地球上の全ての人々の身にも同時に発生したから大変である.
(a)未来が見えなかった人:残念ながら21年後には死亡していると思われます.
(b)寝ていた人:21年後の未来を見たかも知れないが,なにせ夢ですから,現象に気付かない,あるいは目が覚めた途端に忘れてしまった.
(c)21年後に寝ていた人:21年後の自分の夢が見えたかも知れません.
(d)自動車を運転していた人:2分間意識を失った状態で事故を起こさなければ,相当な強運です.
(e)飛行機を運転していた人:着陸態勢に入っていたとしたら,(搭乗していた人を含め)とても運が悪かった.
etc...
 主人公の科学者ロイド(実験のチーフ,したがって地球規模の大災害の間接的な責任を負う)は,未来は確定的であり自由意志は存在し得ないという持論を持つがゆえに苦しみ,(21年後の未来が見えなかった)共同研究者の若手科学者テオは未来を変えてみせる!との執念を21年間燃やし続けることになる.確定的かどうかはネタバレになるのだが,正直言えば,どちらかという話はどうでも良い(当事者は笑えないが).ここに,”パラドックスを生じさせれば過去(つまりフラッシュフォワード現象で生じた損失)が修正される”と信じる者も現れるのは必至である.しかしフラッシュフォワードが無かったことにすれば,その後に利益を受けた人(命を救われた人も含め)は不利益を被る.どうする,○イフル.
 壮大な話の上に,最終的なネタとして,さらに別の荒唐無稽に壮大すぎる話を押し込む.こうなるとジェイムズ・L・ハルベリンの「天才アームストロングのたった一つの嘘」を飛び越して,フレデリック・ポールの「ゲイトウエイ」かポール・アンダースンの「タウ・ゼロ」かといった設定で,はっきりいって蛇足以外の何物でもないが,こういう蛇足っぷりがソウヤーらしいとも言える.
 「ターミナル・エクスペリメント」でも主人公のパートナー(妻,あるいは恋人)が本当に運命の人であるのかどうかを懐疑的に描いていたが,本作でもロイドの恋人であるミチコに対して同様の設定を持ち込む.ジェームズ・P・ホーガンが恋愛ネタを伏線に用いるのがヘタなのに比べ,ソウヤーはオ・ト・ナと言いたい所だが,どうなんでしょう?

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