(2006年)

[2006-1]
・「スター・ウィルス」 (The Star Virus)  バリントン・J・ベイリー (Barrington J. Bayley)/大森 望[訳](創元SF文庫),ISBN 4-488-69703-8, 1970)
 「時間衝突」(1973),「永劫回帰」(1983),「禅銃」,そして「カエアンの聖衣」(1976)のバリントン・J・ベイリーの処女長編.遥か昔に読んだ「禅銃」の印象は薄れ,昨年読んだ「カエアンの聖衣」で古き良きSFの馬力のような物に触れてドキドキして以来の久しぶりのベイリー作品は,正直言うとあまり面白くなかった.主人公は自由気ままな宇宙船乗り(早い話が海賊の頭領)ロドロン・チャン.銀河を人類と二分する異種族ストリール(進んだ科学力,論理的思考を持つ)が所有権を主張する謎の”レンズ”(破壊不可能,用途不明,不思議な異世界の風景が次から次へと映し出される)を強奪したことで銀河の運命を握ることになる.ありがちな筋書,小道具,エイリアン.ところが,あとがきを読んでから考え直してみると出版は1970年.「ゲイトウエイ」(フレデリック・ポール, 1977)シリーズっぽいどころではない.あとがきに書いてあるように,ラップトップコンピュータでホストコンピュータをハッキングしたり,科学者の肩に装着された特殊カメラは頭蓋のコネクタに接続されていたりと,サイバーパンクを先取りしている点では時代の最先端を走っている.その反面,スペースオペラというには上り調子な展開ではなく仲間は呆気なく次々と死ぬ(のに悲壮感がない)のはアンチ・スペースオペラと考えれば新しそうに見えるが,溢れるアイディアを伏線として大量に放り込みながら活かさずに,かつてのロールプレイングゲーム並みのご都合主義的ストーリー展開は,まだまだ処女作だなぁと思わせる.銀河を股にかけて膨張しようとする人類の熱気と,英国SF作家の好みそうな厭世的な破滅への拘り,それと闊達な自由主義・個人主義が混ぜこぜになった登場人物たちは魅力を輝かせることができず(あるいは拒み)中途半端な印象を残す.作品の完成度は高くない(この時代のSF作家が商業的に成功するのが難しかったのだろうという背景を考慮に入れれば致し方ない).しかしベイリーという作家が,SFというジャンルが,どのような魅力を持っていたのかを回顧するという意味では面白い作品です.

[2006-2]
・「スタープレックス」 (Starplex)  ロバート・J・ソウヤー (Robert J. Sawyer)/内田 昌之[訳](ハヤカワ文庫),ISBN 4-15-011257-6, 1996)
 「イリーガル・エイリアン」(1997),「ゴールデン・フリース」(1990),「フラッシュフォワード」(1999)のロバート・J・ソウヤー作品.「ゴールデンフリース」同様に未来の宇宙船を舞台にした話(2090年代).スタープレックスとは探査宇宙船(直径290m,乗員1千名)の名前.誰が作ったのか分からない”宇宙の抜け穴(ショートカット)”を通って銀河系内を自由に宇宙船が瞬間移動できるようになった.ただし無数に存在するショートカットは「誰かが突入したところ」以外は通じていないので,本当の意味で自由自在に行き来できるわけではない.さて,ショートカットを使って未知の宙域を探査するために建造されたスタープレックス号の乗務員は地球人,イルカ(!),ウオルダフード族(6本足の豚に近い外見),イブ族(7種の生物が合体して一つの生命体を構成)の4種族.それ以外の知的生命体は未だ発見されていない.主人公キース・ランシングはスタープレックス号の指揮官だが,軍人ではなく学術目的の探査船だからという理由でいいのか分からないが,社会学の学者である.妻のクラリッサ(生命科学者)も同乗している.ちなみに二人は中年の危機を迎えている.だからどうした?!という部分に拘るのが近年のSF作家の特徴なのでしょうか.
 ウオルダフード族,イブ族,そしてイルカ,それぞれ特徴のある種族とのカルチャーギャップも見どころですが,「宇宙船ビーグル号」とは隔世の感のある科学理論の描写のリアルさと,「ゲイトウエイ」よりも身近な宇宙大家族のドタバタ劇が,銀河創生の秘密(なぜ銀河は渦を巻くのか?など)を解き明かしてしまう.特に,気性が荒くて付き合い難いウオルダフード族(物理科学部門責任者ジャグ・カンダロ・エン=ペルシュ)と地球人(指揮官キース)の間の分かっちゃいるけれど分かり合えないもどかしさ,といった確執が妙におかしい.大傑作だ!という訳ではないが,壮大なネタの隙間に巧妙に埋め込まれたメッセージが,嫌味ではなくシンプルに伝わってくる.治めきれない争いごとに終止符を打つことはできるのか?などなど.
 「フラッシュフォワード」でも蛇足ネタになっていた(ネタバレです)未来永劫まで生き続けるということは何を意味するのか.本来,もっと深刻にならなくてはいけないネタなのに,「ロバート・A・ハインラインか,お前は!」と言いたくなるほど,肯定的にアッサリと描いている.中年の危機を迎えたキースとクラリッサに関して言えば,永遠の愛を誓ったよね,キミ達は,という問題が当然,立ち塞がるはずなのだが,塞がらない.なんとなくお気楽.争いごとの話もそうだが,ソウヤーの思うとおりにウン百億ものヒトビトが意見を一致させてくれる訳ないでしょう,と言いたいのに,耳も貸さない楽天さがこの人のスタイルなのだなぁと理解した一冊.

[2006-3]
・「ぼくが医者をやめた理由・つづき」 永井 明 (Akira Nagai) (角川文庫),ISBN 4-04-344702-7, 1994)
 「ぼくが医者をやめた理由」の続編,著者は故人.1947年・広島生まれ.東京医科大学卒業で内科医になる.モントリオール大学国際ストレス研究所所員になる経緯も本書では触れられている.神奈川県立病院内科医長を経て,”突然,医者を辞め”て書いた前作がベストセラーとなり,多数の医療関係の著書を残す.基本的に普通の人であるが故に,多くの患者との接点を持つ中,なぜ自分が医者を辞めたのかをゆっくりと考え続けた方である.聖路加国際病院院長の日野原医師のような偉人とは歩んだ道は異なるし,ブラックジャックのような天才医師でもなく,先進的な研究を行なった訳でも,画期的な医療機器を開発したわけでもない.
 存命中に,あるWebサイトに掲載されていた永井氏のコラムを定期的に読んでいた.「現代の医療は間違っている!」とオーバーアクションで語るわけではなく,どちらかというと医療とは関係の無い話が多かったように記憶している.その中でマンガの原作を書いている最中であるという話があった.そのマンガはTVドラマ化された.「医龍 Team Medical Dragon」.正直な話,かなり違和感を感じた.医局の縛りなどものともしないで突き進む天才心臓外科医の姿を通して,大学病院内の問題点を指摘するようなタイプのヒトには思えなかったからである.前作,本作を読んで貰えば良く分かるでしょう.マンガの原作として,そしてドラマ化される上でドラマティックな設定と演出が加えられたのかも知れない.「ブラックジャックによろしく」(映画「ジョー・ブラックによろしく」のパクリ?)のように医療現場の中で悪戦苦闘する青年医師の姿を通して社会問題を提起するスタイルや,限りなくリアリティが高い米国TVドラマ「ER」とも違う.はっきりいってTVドラマ「医龍」は主演俳優の演技力の無さから始まって,突っ込みどころの多さが魅力(結局,全話観た)というB級色の強い作品だった.「ぼく医者」は阿部 寛主演,大森一樹脚本で1980年代にTVドラマ化されているらしい.永井氏のイメージと阿部寛は,まったく一致しないのだが...チャンスがあったら観てみたいが,多分,ドラマとしてはありきたりで,ドキドキワクワクするような作品ではないだろう.

[2006-4]
・「精神分析医(上/下)」 (The Analyst) ジョン・カッツェンバック (John Katzenbach)/堀内静子[訳] (新潮文庫),ISBN4-10-202211-2, 2002)
 著者カッツェンバックは新聞記者あがりのミステリー作家.1982年に発表したデビュー作「真夏の処刑人」がアメリカ探偵作家クラブ賞にノミネートされた他,映画化された作品も多いと著者紹介に書いてある.先に本作品の感想を一言でまとめると,「前半の展開がイライラさせられるがゆえに後半のどんでん返し後が痛快」.そう,上下あって,上巻と下巻でコロッと展開が逆転する点が特徴.さて,この作家の作品ですが,以前に1作だけ読んだことがある.「理由」("Just Cause, 1993).この作品は1995年に同名で映画化(ショーン・コネリー主演,ローレンス・フィッシュバーン共演)されている.実は映画は観ていないのだが,原作は本作同様に前半と後半で大きく展開が”逆転”する.死刑宣告を受けた黒人青年から受け取った無実を訴える手紙を信じて調査を開始した新聞記者が真犯人を突き止め,黒人青年を無罪へと導くのだが...(ちなみにいま映画版のあらすじを確認のために調べてみたのだが,全く違う話に脚色されていてびっくりしたぞ) 
 なぜ1冊目が退屈に感じられたのかと言うと,主人公リッキー・スタークスがモタモタして犯人に先手ばかり打たれているせいである.リッキーの職業は精神分析医.あまり日本の社会では身近な存在ではないのだが,(少なくともアメリカからやってくる)小説,TVドラマ,映画ではとても身近な職業のようである.基本的には「ふん,ふん」「それで?」と受け身の姿勢を通し,意識/無意識下の患者の悩みを自ら語らせることで整理統合させる仕事,というのが門外漢の私の理解.Analystも精神分析医の意味だが,堅苦しくはPsycoanalyst.似たような職業名でセラピストというのもドラマ等で耳にするので,その違いを少し調べてみたのだが,
Therapistとは療法士一般を指す単語である.狭義にはサイコセラピー(精神療法,心理療法)を指すらしい.ううむ,区別が良く分からない.ちなみにアナリストという職業を初めて知ったのは,ベストセラー作家トム・クランシーのデビュー作「レッド・オクトーバーを追え」のジャック・ライアン.こちらは精神分析ではなく,分析官だが(笑).
 話が長くなったが,コンピュータも使わず,53歳になるまで同じビルの同じ部屋(診察室)で黙々と患者の悩みを聞き続けて,受け身の姿勢が習慣化してしまったリッキーに,突然,全力で走れというのは無理な相談である.誰か知らない人物から「15日以内にこの手紙の送り主を探すか,あるいは自ら命を絶て」といった脅迫状を受け取っても,あっという間に2〜3日を無為に過ごしてしまう.
なにはともあれカッツェンバックはどんでん返しが得意なのだ,ということで納得して,精神分析医という職業の説明にモタモタとし,その分析医である主人公もモタモタしている1冊目で飽きずに,頑張って2冊目に突入して下さい.ちなみに本作と「理由」以外の作品も,やっぱりどんでん返しなんですかね?

[2006-5]
・「コロンブスの呪縛を解け(上/下)」 (Serpent) クライブ・カッスラー(Clive Cussler) & ポール・ケンプレコス(Paul Kemprecos)
/中山善之[訳] (新潮文庫),ISBN4-10-217025-1, 1999)
 原題の"Serpent"とは,辞書によればエデンの園でEveを誘惑して禁断の木の実を食べさせたものがSerpentであり,一般的にヘビのイメージをもつ.The old serpentは悪魔の意味を持つらしい.ちなみに小説あとがきでは,”マヤ族の創造神であるククルカン,ないしはアステカ族の主神ケツァルコアトルと同一視されている神の表象である羽毛を持つ蛇を指している”(訳者)とある.ちなみに舞台のクライマックスはマヤ文明の遺跡.しかし物語の主題は邦題にあるように,アメリカ大陸を初めて発見したと言われているコロンブス,にある.
 思い起こせば,カッスラーのファンになってから20年近く経つ.著者のカッスラーは1931年生まれ.いま75歳なんですね,時間が経つのは早い!(アーサー・C・クラークに比べれば大半の作家は若いが...).若手の作家ポール・ケンプレコスとの共作になる本作は,他のカッスラー作品同様にNUMA(国立海中海洋機関, National Underwater & Marine Agency)を舞台としているが,それまでの主人公,ダーク・ピット&アル・ジョルディーノコンビではなく,カート・オースチン&ホセ・ザバーラを主人公とする.ピットたちとは部署が違うだけなので,NUMAの設立者であるサンデッカー提督やルディ・ガン,ハイアラム・イェーガー,パールマターなどの登場人物はダブッて登場する.第1作ということもあり,ピットとジョルディーノも一瞬,顔を出す.ちなみにカッスラー自身も沈没船などの探索を趣味としており,作中と同じNUMAという私設の団体を設立している,生粋の道楽人である.
 さて,単刀直入に言うと,ポール・ケンプレコスと初めて共作した本作品だが,あまり面白くなかった.オールスターキャストぶりがミーハー臭く,登場人物たちが発するイカした(つもりの)セリフは冗長で,イライラしてしまう.謎解き,アクション,道楽を三大要素とする本シリーズだが,どれもが中途半端なまま2冊目の後半に達し,特に謎解きに関して言えば,”敵方”があまりにも弱すぎるし,壮大な陰謀の割には計画がずさんで甘くて簡単に打ち破られてしまう...ノコノコと危険な現場に現れて呆気なく倒されるとは,巨大化したウルトラ怪獣なみに情けない.ストーリー展開が弱く,主人公に力強さが欠け,セリフが饒舌で軽薄であるため,正直な話,早く読み終わりたかった.次のカッスラー&ケンプレコス作品がこのありさまだとしたらファンとしては悲しい限りだ.ちなみに昨年劇場公開された「サハラ 〜死の砂漠を脱出せよ」(マシュー・マコノヒー,ペネロペ・クルス主演)は”カッスラーの正しいダークピットシリーズ”を持ち味そのままに映画化した作品です.あの雰囲気が本当のカッスラー作品.やっぱり主人公が小僧じゃつまらない.

[2006-6]
・「手術室の中へ/麻酔科医からのレポート」 弓削孟文(Osafumi Yuge) (集英社新書),ISBN4-08-720030-2, 2000)
 著者は1947年生まれ,広島大学医学部麻酔・蘇生学の教授である.麻酔患者管理に関する臨床活動と基礎的研究を続けている,つまり現役の麻酔科医である.手塚治虫の「ブラックジャック」に見るように,外科手術の花形と言えば執刀医,麻酔科医は裏方である.とはいえ,麻酔科医をヒーローに持上げようと云うのが著者の意図では無く,あまりにも麻酔医(あるいは麻酔と云う行為)について一般の患者の認識が低すぎるのではないかとの思いから執筆された本のようである.本書の特徴は,「麻酔とはどのような処置か」をその歴史から語り,分かり易い概略から説明は始まり,実例を交えて徐々に現実的かつ具体的な知識を披露していくスタイルである.
 全身麻酔で意識がないうちにチャチャッと手術は進み,目が覚めたらキレイさっぱり直っている.鎮痛解熱剤で頭痛や高熱が治まるかのように,プチッと注射を打てばコトンと眠りに落ち,薬が切れれば,朝に目が覚めるのと全く同じくフワワワ〜と目が覚めると思いがちだが,これは大違いであるということが一も二も無く大事なこと.痛みが伝わる経路をブロックすると同時に,筋弛緩剤などで運動機能を低減させる.その結果,生命の維持に必要な自律的な機能(ホルモンの分泌なども含む)が正常な状態ではなくなる.極端な話,半分,死んだ状態になる.一度,正常な状態ではなくなった人体のシステムを平常時のバランスに快復させる操作も慎重を要する.米国TVドラマ「ER」シリーズのエピソードの一つにもあったのだが,本人の意識は完全にはっきりしているにも関わらず,脳梗塞により運動機能が全て失われた状態にある恐怖.蘇生の過程でミスがあれば現実に起こり得る.本来は自律神経が行なう生体内の調整機能を薬剤の投与でコントロールするのも麻酔医の仕事である.これはTVドラマ「医龍」の中で阿部サダヲ演じる天才麻酔科医が(かなり演出過剰に)行なっていた.麻酔科医の仕事が一般の人の目に触れた作品は(私の知る範囲では)この作品が初めてだろう(原作マンガの監修は元医師の永井 明氏).
 数年前に,骨髄バンクのドナーに選ばれて骨髄採取の手術を行なった際に,全身麻酔を受けた.白状すると私自身も20代前半で骨髄バンクに登録した若かりし頃は,「コトリと寝て,フワワと起きる」と考えていた(そもそも全身麻酔が必要かどうか,まで意識していなかった).痛みが残るなどの後遺症の話は心配だったが,麻酔から覚めない可能性などは考えもしなかった.骨髄のタイプの一致する患者さんが現れたという連絡を受け,家族に話した際も,多少の医療に関する知識は増えていたものの麻酔に関する心配はあまりしていなかったため,妻や母親が私の予想よりも遥かに深く心配し,悩んだことに,当初は困惑した.
 もっとも,麻酔の処置のミスによる医療事故はゼロではないだろうが,心配だから手術を諦める,というほど高いわけではない.薬剤や機器は進歩し,著者のような現場の医師が多くの症例を研究している.ただ,医者は患者の命を預かるが,患者は本当に「全部お任せします」で良いのだろうか.確かに車の内部構造を知らなくても車は運転できるのだが...ということである.
 少々残念なのは,筆者ができるだけ専門的な図版や写真を提供し,説明も専門的であるにも関わらず,出版社側で追加したと思われる図がラフ過ぎて,言葉での説明を十分に補えていない点である.言葉通りに図にしただけであり,そこから得られる情報が皆無である.これでは意味が無い.

[2006-7]
・「ストレスに効くはなし」 永井 明(Akira Nagai) (角川文庫),ISBN4-04-344704-3, 1993)
 医療繫がりである(笑).「ぼくが医者をやめた理由」,「ぼくが医者をやめた理由・つづき」の故・永井 明氏が若かりし頃に,情熱だけを頼りに飛び込んだモントリオール大学国際研究所でのちょっとおかしな研究者生活を通して,「ストレス学説」を分かり易く説明した真面目な本です(タイトルだけみると,ちょっといかがわしい本のようにも感じられるが!).「ぼく医者」シリーズには,あと一作,「ぼくが医者をやめた理由・青春篇」もあるらしい...
 兎にも角にも,スパッと直ってくれない患者が居る.別の検査を行なえば何か分かるかも知れないが,どうしても原因が分からない.そもそもその患者の症状が来院するたびに変わる.しかし患者がウソをついている訳でも無さそう...ところが少量の抗欝剤を処方したところ症状は治まり,血糖値も正常値まで下がってきた.さまざまな不調の原因はストレスだった.
 すべての病気がストレスに起因する,と云っている訳ではない.ストレスが原因で身体に問題が生じる場合があると言うだけである.「ストレス学説」を唱えた世界的権威のハンス・セリエ教授に手紙を出したら,予想外,研究所で働かないか,という話になり,働いていた病院を一時休職する際には大いに揉めて,当時付き合っていたガールフレンドには手痛く振られ,それでもストレス学説を研究するためにカナダを目指す.行った先でもスッタモンダ.永井氏の文体は嫌味なく,真面目で不真面目で面白い.「ぼく医者」シリーズがどちらかというと鬱屈とした辛い話が多かったのに対して,この作品は情熱に燃え(ていた)若者の前向きな話が中心だから文句なしに隅から隅まで楽しめる.文庫化の際に「恋愛胃潰瘍の作り方」を改題して現在のタイトルになったらしい.内容は昔のタイトルの方が近い.

[2006-8]
・「生涯最高の失敗」 田中 耕一
(Koichi Tanaka) (朝日新聞社),ISBN4-02-259836-0, 2003)
 2002年に東京大学名誉教授の小柴昌俊教授(物理学賞)とノーベル化学賞をペア受賞して日本中を驚かせたサラリーマン受賞者・田中耕一氏が受賞後に出版した本.TVで報道されるのは面白おかしいことばかり,ちょっと辟易しつつも謙虚な姿勢,その喧騒の中でも後でも自分を見失わない田中氏の魅力が詰まっている.書き下ろしの「エンジニアとして生きる」と受賞記念講演をまとめ直した「生体巨大分子を量る」,テクニカルライターの山根氏との対談「挑戦と失敗と発見と」からなります.ご本人も書かれているように一部,重複している部分がありますが,全体としてはスッキリと読みやすい.
 青色LEDの実用化に大きく貢献した現カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授の中村修二氏とは全くタイプの異なるエンジニアである印象を受ける(どちらが良くて,どちらが悪いという意味ではありません).田中氏の強みは”実験が大好きで,エンジニアとしての仕事に生きがいを感じている”という点です.私の4年間と云う短いエンジニア生活は新しいものの開発ではなく,生産設備の制御部を黙々と(ただし右も左も分からない状態だったので,ただガムシャラに)設計・製作するという仕事だったため,ノーベル賞に繫がるような発見があったとは思えないのですが,エンジニアの端くれとして,受賞に浮かれて舞い上がったりしない田中氏の真摯な姿勢には大いに好感を持ちました.自分だったら...想像が易い(苦笑).
 一生現役エンジニアで居たい,と言う人を私も何人か知っています.一昨年までM科の非常勤講師をして頂いた某工作機械メーカーの方(「ロボット工学」を半分担当して頂きました)もそうでした.管理職になると図面を描いたり,装置のデバッグを行なったりといった,一番楽しい仕事から引き離されてしまう.もちろん管理職向きの人も居ますので,エンジニア全てが昇進を断れ,という訳ではありません.ただ,私が会社を辞めて研究者になったのも同じ理由だったことを思い出しました(本当に忘れていた訳ではありませんよ).私が在職していたメーカの上司も似たようなことをたまに言っていました.「Z80だったら任せろ」.管理職になって現場を離れている間に技術のトレンド,特に電子系は格段の進歩があったため,実践的な仕事の勘やノウハウは残っていても,部品や機器の知識が古いと設計はできません.退職間際に一緒に現場で働く機会があったのですが,装置をインストールしに行った現地で,とても楽しそうに工具を握って作業を手伝ってくれました(もっとも,装置が通電中にフラットケーブルをハサミで切断する荒業に出てシーケンサのI/Oユニットを破損してしまいましたが...).たった4年間で何を私が習得したか怪しいものですが,バブル崩壊後の規模縮小のちょっと先行きの暗い雰囲気の中,なんだか分からない職場の管理職になっていく将来の自分を想像して違和感を感じました.もちろん,私が在職していた企業は自由闊達なエンジニアが活躍することを社是としていましたので,3年以上勤務したあとは社内公募に自由に応募して好きな職場に移ることができるというシステムがありました.もっと自分に自信があったのならば,チャレンジしていたかも知れません(これも悩みました).しかし会社は基本的に短期・中期のレンジで収益を上げる仕事に全力を注ぐものです.これぞと思う商品開発に取り組んでいても収益を上げられないと判断されれば設計が完了していてもプロジェクトは解散.サラリーマンの仕事はそういうものですし,田中氏もそのことに対して会社と対立するようなことは絶対無いでしょう.ただ,私は世界最先端ではなくても良いので,自分と自分のチームで何か面白いものを作り上げて周りの人を「あっ」と言わせたいという思いがありました.しかし自分も単なる管理職になっていることに,実は数年前から気付いていました.ここらで一つ襟を正して初心に帰ろう.(とはいえこれから定期試験の採点や出張の報告書やその他の沢山の雑用の締め切りがいつまでもいつまでも続いているのだが...)

[2006-9]
・「クラインの壺」 岡嶋二人(Futari Okajima) (新潮文庫),ISBN4-10-108012-7, 1989)
 ヴァーチャルリアリティ(仮想現実)技術を取り入れた最新のゲームシステム「クライン2」のテスターとして働くことになった上杉.体全体を覆うウレタンフォーム状の装置に身を沈めると,全ての感覚器官への刺激はコンピュータにより生成され,フォームを介して被験者にフィードバックされる.テラバイト単位の記憶容量をもつ高性能コンピュータにより生成される仮想現実世界で被験者は非現実感をまったく感じない.舞台設定は平成3年,いまから15年前なので1991年頃だろうか.その当時はまだWindows95も発売されていなかった訳で,日本国内のパーソナルコンピュータ市場は国民機PC9801がMS-DOS(あるいはWindows2.11か3.0)で動作しており,その互換機をエプソンが販売していた時期である.メモリは1〜4MB,HDDは40MB.この時代に人間の全感覚を騙すことができる仮想現実技術が実現できると仮定する設定には強引さを感じるが,その点は無視できる.ただ,力強く無視した反動だろうか,このような大規模なシステムがアミューズメントパークのアトラクションとして本当に経済的にペイするのだろうか?という作中人物の指摘があるまで,主人公同様,私もそのような疑念をまったく抱いていなかった.そう,前半部は”なんとなく謎っぽいが楽しそう”で展開し,この指摘以降は”やはり胡散臭い,気を付けろ”に変る.本作はSFに属するのだろう.ハードSFとしての道具立ては揃っているが,いまひとつダサい(という設定の)主人公の上杉,関東の外れの町で進行する国際的な陰謀であるイプシロン・プロジェクト,なんとなく牧歌的である.
 しかし,なにがこの本で最も衝撃的だったかと言えば,”新井素子の「解説」”だ.「ええとね,」で段落が始まっても,「んで,」と文と文が繫がっていても,平気だった中学生の頃の自分がいまから思うに許せない.当時はこの「話し言葉の一人称」が斬新で,新井素子ファンの端くれだったのだが,いまこの解説を読むと眩暈がしてきた.なお,断っておきますが,新井氏の仕事を責めている訳では決してありません.
 なお,「クラインの壺」とはドイツの数学者フェリックス・クラインが考えた三次元版メビウスの輪のような構造で,光造型機を使って製作することもできる実在の構造です.壺の外側の面がいつの間にか壺の”裏側”(言葉だと難しいですね,表現が)に回り込んでいく.詳しくはこのあたりから情報を辿ってください(ここ).仮想空間の外にいたつもりの自分が実は仮想空間の中にいるようで,外にいるのかな,ああ,わからない,という本作のアイディアを旨く表すメタファな(でもちょっと安直?)タイトルです.似たようなアイディア(仮想現実+陰謀)ながら,もっと骨格のしっかりしたハードSFを好まれるならばJ・P・ホーガンの「仮想空間計画」がお勧めです.他に仮想空間関係のSFとしては,グレッグ・イーガンの「順列都市」,ちょっと古いけれどもフレデリック・ポールの「ゲイトウエイ」シリーズ後半,J・P・ホーガンの「星を継ぐもの」シリーズの3作目の「内なる宇宙」,チャールズ・プラットの「バーチャライズド・マン」あたりでしょうか.

[2006-10]
・「脳男」 首藤瓜於(Urio SHUDOU) (講談社文庫),ISBN4-06-273837-6, 2000)
 第46回 江戸川乱歩小受賞作.著者の首藤氏は’56年生まれ.この作品で江戸川乱歩賞受賞後,2作ほど発表しているようだが,それらの書評は「面白いし盛り上がるところは盛り上がるのだが,全体的に中途半端」と持上げておいて落とされる傾向がある.本作も,「あ,そういう犯人像がありか」という新機軸を打ち出しておきながら,その影の主人公(ダークヒーローという表現には強い違和感がある)を負う豪腕ベテラン刑事や巻き込まれる女性精神科医師の設定は定型的で(安心だが)目新しくない.その活躍は主人公の鈴木一郎(没個性的な名前に意味がある.”右手だからミギー”に近い)の後をフラフラと追い続けるだけである.続編を匂わせるエンディングだが,その後,書き下ろされてはいないようである.著者の首藤氏は現代美術振興協会CASAを主宰しており,モダンアートのプロデュースを行なっている,と著者紹介に書いてある.活動の中心は著作では無いのだろう.ちなみに脳男,という言葉は作中には出てきません.まだ読んでいませんが,「ハサミ男」(殊能 将之,1999)とは何の関係もない(と思う).

[2006-11]
・「はじける頭脳−MITのすごい奴ら」 鳥井良二(Ryouji TORII) (アートン),ISBN4-90-100650-9, 2003)
 MITに社会人留学した著者の体験を綴った(留学体験本+MIT紹介本)/2.と言いたい所だが,正直なところを言うと,どちらも1に達していないので足して2で割ると1未満.留学中に現地から会社の情報誌(Web?)へ送った記事を元にして再構成したのではないだろうか? 構成が中途半端.ただ,一旦,会社に就職して情報系のセクションで実務を行なった上で,会社の留学制度を利用して1年間の海外留学を行なった体験記というのは珍しい.大体は,学生のまま留学したり,会社を辞めて人生をリセットするために留学したりする人の啓蒙書なのか,自己啓発書なのか,といった本が多い中,”なぜ働いているのに留学しようと云う気になったのか”,”留学して外国の学生と接して何を感じたのか”(それを社会人としての目で見る),”留学から戻ってきて自分は/会社は何が変ったのか”を述べているいくつかの段落にこの本の価値はある.定価1,050円は妥当な価格.図書館にも入れて貰いましたので,パラパラパラっと一気に飛ばし読みして見て下さい.
 MITのすごい奴ら,という煽り文句は過大です.実際には「なんて一生懸命に勉強するんだ,しなきゃらないんだ」という抽象的な気持ちの問題と,実際にいくつかの有名な研究者の研究紹介もありますし,有名な謎のハッカー集団(クラッカーではありません)に触れた箇所はありますが,それならばもっと良い本がきっとあるでしょう.ちなみに真面目にMITの成り立ちと特徴を知りたいのであれば,その名の通りの「マサチューセッツ工科大学」(フレッド・ハプグッド,新潮社)がお勧めです.

[2006-12]
・「80歳の世界/ぼくの老人体験レポート」 永井 明(Akira NAGAI) (角川文庫),ISBN4-04-344706-X, 1993)
 何度も登場しています永井氏(故人)の作品ですが,今回は過去を振り返る自伝ではなく,実体験ルポルタージュ.1993年3月に飛鳥新社から刊行された「ボクに”老後”がくる前に−老人体験レポート−」を改題し,雑誌「潮」(1999年10月)に掲載された「ボクに”介護”がくる前に”を”特別養護老人ホーム「あさひ苑」の一日”に改題して第9章に収録した作品.2015年には4人に1人が老人(高齢者:65歳以上)になるといわれる日本(その後,この数字はもっと悪化したはず).肉体が老いるとはどういう状態なのか,これを50代の著者が全身におもりとサポータを装着して擬似老人化して街に繰り出す.なお,永井氏は事前に財団法人 東京都福祉機器総合センターで「うらしま太郎セット」を用いて高齢者疑似体験を行なっている.ところで,いまこの東京都福祉機器総合センターをインターネットで調べようとしたのだが,結構ヒットするものの本家のWebページに辿りつけない.ちょっと宣伝不足ではないでしょうか.
 「ぼくが医者をやめた理由」,「ぼくが医者をやめた理由・つづき」,「ストレスに効くはなし」同様,永井氏は”世の中,なにかおかしいよぉ”と思っていても,それを大上段に構えてぶった切るタイプの人ではない.今回も”社会インフラが高齢者に優しくない”,”介護保険はここがおかしい”と切って掛かるわけではない.確かに,駅のチケット売り場でモタついている時に後ろに並ぶ青年に舌打ちされたり,昇りのエスカレータはあるのに下りは無かったり,と,辛い老人体験もするのだが,”ゆっくり老いれば怖くない”という雰囲気をうまく醸し出している.若いうちにしかできないことは沢山ある.階段を一段飛ばしで駆け上ったり,缶ビールを箱買いして帰ったり,酔った勢いで植え込みを跳び越そうとして足をくじいたり,
打合せの際にメモも取らずに記憶に頼ったり.そろそろ40代への突入を意識し始めた私の場合も,近頃はバイクで夜道を走るのが怖くなった.昔は見えていたものが見えていない(意識しないと気付かないだろう).スケジュールなど忘れ易いのでPDAを手放さない.人の名前が思い出せない(まぁ,覚えなくてはならない人の数が劇的に増えたのも事実),風邪は治らないし,怪我も治らない,よく転ぶ(これは足の捻挫を放置したのが原因?),気が短くなり怒り易くなった,腕が上に上がらない(四十肩),肩こりをするようになった,小さい文字が読めない,読めても誤認識する確率が増える(先ほども”行方七段が7勝2敗”が”行方不明が7勝2敗”と読めて,これってどういう意味だ?と悩んだ).
 トボけた永井氏が,ちょっと可愛いおばあちゃんに化けて街へ出る.そう,アキラじいさんではなく,アキばあさん.ちょっとフザけた感じもするが,思い切って大変身した方が変装に気付かれ難い.なお,おばあさんの方が活発であること,世の中の人々はおじいさんよりもおばあさんに優しいこと,などが体験できたそうなので判断は間違っていなかったのだろう.ただし,この企画を立案し実行する出版社サイドはそのような気持ちがあったとは感じられない.ここがこの本の弱点.真面目過ぎるのもよろしくないが,不真面目過ぎるのは不謹慎だ.
 永井氏は元医者の立場として,さまざまな場面で医者としてのコメントを求められる.高齢者問題について意見することもあるが,知識,経験として高齢者を一般の人々よりも多く接してきたとはいえ,本当に高齢者について知っている訳ではない.意見をしても地に足がついていない気がすると言う.肉体だけでも老人として体験することで,もっと発言に説得力を持たせたい.正しい.だから特別養護老人ホームではリフター浴に加えて肛門洗いも体験する.なかなかそこまでできないだろう.
 ニュースを見るたび,将来の老後が心配になるものだが,大病を患わず,衣食住が足りれば文句はない.きっとあと20年後にはいまよりも社会のシステムは高齢者に優しくなっていることだろう(なにせ先輩方が大量に高齢化してくれるので).そのために技術的に貢献できることが少しでもあれば,頑張りたいと思う今日この頃.こんなことを考えられるのも,まだ若いからですし,ね.

[2006-13]
・「ぼくが医者をやめた理由・青春篇」 永井 明(Akira NAGAI) (角川文庫),ISBN4-04-344703-5, 1996)
 続けざまに永井氏です.本作は「ぼくが医者をやめた理由・つづき」の続きとして発刊されていますが,今度は医者になる前,つまり医学生の頃に遡ります.なぜ医者を辞めたのか,その理由探しを実務経験に求めたのが前作2冊であるのに対して,本作は辞めた理由を考えるよりも,永井明という人間がどのように出来上がったのかを回顧した自伝.とはいえ本人も納得して頂けると思いますが,偉人伝ではありません.ボクはこうして医者になってしまった,という雰囲気が全体を覆う.自虐的でもなく,世相を呪うでもなく,アッケラカンと,学生運動盛んな1967年からの数年の新宿私立医科大でのボクの熱くもトボケた医学生生活をお楽しみ下さい,という内容.
 将来,何になりたいのか.職業選択の自由は若いキミタチに広く扉を開けている,ように見えてその先は霞んでいて良く見えないし,周りの人たちは将来暗いぞと脅かしている今日この頃.まぁ,そんな状況は今に始まったことじゃありませんので,安心して下さい.誰だって将来はどんな仕事をしてどんな人生を歩むかなんて分からなかったのです.なりたくてもなれない職業もあります.医者もそうだし,学校の先生もそう.なんとなく医者になれてしまった永井氏の戸惑いと苦悩も少し分かりますし,アッケラカンと,「まぁなるようになるでしょう」という楽天性も若い男性一般は備えているようです(女性は良く分かりません).私もそうでしたし,いまだって,この仕事を続けて周りの皆様の顰蹙を買っているのじゃないのか,と,日々,ビクビクしている次第です.他の人たちも似たようなものじゃないのかな? もっとも,ビクビクしている人に飛行機を操縦されたりすると困るので,高いお給料を貰って気を紛らわせて頂いているのでしょう(パイロットの皆様には申し訳ない).なんとなく年の瀬も迫って気の抜けた話になってしまいました.失礼.

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